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土宜法龍

1855-1923, 仏教学者、僧侶。 ウィキペディアから

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土宜 法龍(どき ほうりゅう、嘉永7年(1854年8月[1] - 大正12年(1923年1月10日)は、近代日本仏教史を代表する仏教学者僧侶。字は覚意、号は雲外木母堂、幼名は光九、土岐とも書く。高野山学林長、仁和寺門跡(36代)、真言宗御室派管長、真言宗各派連合総裁、高野山真言宗管長などを歴任[2]

概要 土宜 法竜, 生誕 ...

経歴

尾張国名古屋(現・愛知県名古屋市)生まれ。である伯母の手により4歳の時、幼くして出家した。1869年明治2年)より高野山の伝法入壇に入る。

1876年(明治9年)田中正彜の協力により上京、慶應義塾別科に入学し卒業。福澤諭吉の仏教保護方針の下、禅僧釈宗演と並び慶應義塾精神界の二大明星とうたわれた。1881年(明治14年)に真言宗法務所課長。渡辺雲照(釈雲照)を補佐し、後七日御修法宮中真言院で伝承されていたが、維新の神仏分離で途絶した)を東寺にて再興する。十善戒を守ることを主眼とした「十善会」を主宰し、山岡鉄舟久邇宮朝彦小松宮彰仁らが参禅した[3]

1893年(明治26年)にシカゴで開催された万国宗教会議に日本代表として、釈宗演(臨済宗円覚寺派管長)、芦津実全天台宗)、八淵蟠龍浄土真宗本願寺派)の仏教学者四名で渡米した(なお、島地黙雷南条文雄は欠席)。また当時東洋学の中心だったパリギメ美術館で、仏教関係の資料の調査と研究を行う[4]

横浜正金銀行ロンドン支店長・中井芳楠の家にて南方熊楠と面会し、以来没するまで、約30年間に渡って膨大な往復書簡が交わされた[5]

西域チベットなども旅し、伝統的な真言教学の上に、近代欧州的なインド古典学、仏教学の研究方法を導入し、以後の密教学研究の基礎を築いた。1906年(明治39年)より真言宗御室派管長に就いた[6]

明治40年(1907年)朋友であった瀧見常の遷化に際し頌徳碑の文を撰述した[7]

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関連項目

関連文献

参考文献

研究文献

  • 小田龍哉『ニニフニ 南方熊楠と土宜法龍の複数論理思考』左右社、2021年

脚注

外部リンク

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