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土岐頼殷
日本の江戸時代前期~中期の大名。出羽上山藩初代藩主土岐頼行庶長子で、上山藩2代藩主及び越前野岡藩主・駿河田中藩初代藩主(3万5000石)。従四位下丹後守・伊予守 ウィキペディアから
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土岐 頼殷(とき よりたか[2][3])は、江戸時代前期から中期にかけての大名。出羽上山藩の土岐家第2代藩主で、大坂城代を務めたのち、駿河田中藩の初代藩主となった。沼田藩土岐家3代。
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生涯
要約
視点
生い立ち
寛永19年(1642年)9月3日、上山藩藩主・土岐頼行の庶長子として生まれる[要出典]。『寛政重修諸家譜』によれば、寛永18年(1641年)生まれ[2]。土岐家の後継予定者としては弟[注釈 1]の土岐頼長が定められていた。
承応元年(1652年)6月28日、将軍徳川家綱に御目見[2]。寛文3年(1663年)に書院番士となり[2]、寛文5年(1665年)に蔵米300俵を給される[2]。寛文7年(1667年)に小姓に転じ、200俵を加えられ、従五位下・伊予守に叙位・任官された[2]。寛文12年(1672年)、小姓組番頭となって奥詰を兼ね、1000俵を加給された[2](合計1500俵)。
上山藩主となる
延宝6年(1678年)、土岐家の世嗣であった頼長は多病を理由として廃嫡され、5月27日に頼殷が世継ぎとなることが認められた[2]。これに伴い、幕府の職は解かれ、蔵米知行は収公された[2]。同年8月16日、父の隠居と頼殷の家督相続が認められ[2]、上山藩2万5000石の土岐家第2代藩主となった。延宝7年(1679年)6月には知行地入りの暇を得ている[2]。
貞享4年(1687年)7月には小田切昌近を預けられ[注釈 2]、11月には下野烏山藩那須家の改易(那須資徳参照)に伴い、烏山城の受け取りを務めた[5]。元禄3年(1690年)12月3日、奏者番に任じられた[4]。
大坂城代就任
元禄4年(1691年)1月11日、大坂城代に任じられるとともに1万石(摂津・河内両国内19か村[6])を加増され、知行高は3万5000石となった[4]。
元禄5年(1692年)2月26日に領知替えが行われ、摂津・河内・越前の3国内で3万5000石を領することとなった[4]。上山が大坂から遠いという理由から、旧来の領地2万5000石が越前国に移されたものである[6]。土岐家は、越前国の所領を管轄すべく今立郡野岡村(現在の福井県越前市野岡町)に陣屋を設置し[7]、奉行や代官を置いて年貢収納や地方支配にあたらせた[6][7]。以後、野岡村は正徳2年(1712年)の転出まで頼殷の越前国の所領(「野岡領」[6])の管轄拠点であり[6]、大坂城代を務めていた時期の頼殷の領国(藩)を「野岡藩」と呼称することがある[8][9]。
元禄14年(1701年)10月28日、従四位下に昇叙[4]、同年11月28日に京都所司代格となる[4]。
宝永5年(1708年)閏1月11日、越前国の領地のうち1万5000石が播磨国に移された[6]。
田中藩への移封と晩年
正徳2年(1712年)5月15日、大坂城代を辞職、駿河田中藩に移封された[4]
正徳3年(1713年)7月6日、家督を長男の頼稔に譲って隠居する[4]。
享保7年(1722年)9月22日に死去した[4][3]。享年81(『寛政譜』によれば82[4])。田中の増円寺に葬られ、のち頼稔のときに品川東海寺の春雨庵に改葬した[4]。
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系譜
特記事項のない限り『寛政譜』による[5]。( )内は『寛政譜』の記載順。
脚注
参考文献
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