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坂東彌十郎

日本の歌舞伎役者、俳優 (1956-) ウィキペディアから

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坂東 彌十郎(ばんどう やじゅうろう、1956年昭和31年〉5月10日 - [1])は、日本歌舞伎役者[1]屋号大和屋定紋三ツ大、替紋は花勝見。本名は本間 寿男(ほんま ひさお)[1]。業務提携:松竹エンタテインメント、俳優として映像作品にも出演している。

概要 屋号, 定紋 ...

兄は関西歌舞伎の脇役で活躍した二代目坂東吉彌。長男は坂東新悟

来歴

坂東好太郎の三男として東京に生まれる。千代田区立麹町小学校を卒業後、暁星中学校に入学。幼少の頃より背が高くサンマというニックネームもあった。また学芸会など演劇に熱心であった。

映画俳優に転じたあと1962年(昭和37年)に歌舞伎俳優に戻った父は伯父の八世坂東三津五郎十四世守田勘彌に稽古をつけてもらっており、テープ係として同行していたという[3]

「どうしても歌舞伎役者になりたい」と望み[4]、八世三津五郎一門に入門。1973年(昭和48年)5月、歌舞伎座『奴道成寺』の所化観念坊で坂東弥十郎[注 1]を名乗って初舞台を踏んだ。しかし1975年(昭和50年)1月に八世三津五郎が急死し十四世守田勘彌の門に移るが、2か月後にはその十四世勘彌も急死してしまう。

後ろ盾を失くし役がつかなくなったため、実家に戻って父のもとで一般演劇にも出演していた。父は死去する前に三代目市川猿之助に彌十郎を託し、門下に移ったという[4]

1978年(昭和53年)『五大力恋緘』(五大力)の男芸者、『人情噺文七元結』(文七元結)の鳶の頭で名題昇進

以降は猿之助一座で立役、敵役、老役と幅広い役柄をこなし、1998年平成10年)に真山青果賞奨励賞を受賞する。三代目猿之助演出のオペラコックドール」(1984年)等で演出助手を務め、坂東玉三郎の「夕鶴」(1997年)の演出も手がけた[5]。しかし澤瀉屋の助手としてではなく、自らもっと海外でやってみたいとの思いが芽生えたことから一門を離れた。その後、同世代の十八世中村勘三郎による「平成中村座」に参加。2003年(平成15年)には中村座ニューヨーク公演『夏祭浪花鑑』「鳥居前」「三婦内」の三婦が好評を得ている。

2014年(平成26年)には長男と自主公演「やごの会」を立ち上げ、2016年(平成28年)にはフランス、スイス、スペインの3ヵ国をめぐるヨーロッパ公演も行っている。

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受賞歴

人物

梨園一の長身(183cm[注 2][10])で、その偉丈夫な押し出しを使った力強い芸風を持つ。

趣味は海外旅行で、とりわけヨーロッパ方面の旅を好んでいる。語学も英語仏語に堪能で、歌舞伎の海外紹介に積極的で国際性豊かな歌舞伎役者を目指している。

酔寿(すいす)という俳号を持つ俳人でもあり、折に触れて自作の俳句を専門誌などに発表することもある[11]

同世代の十八世中村勘三郎とは少年期より交友があり、生前の勘三郎の企画に名を連ねることも多かった。

猿翁(三代目猿之助)に自主公演「やごの会」ヨーロッパ公演の報告に行った際に「やっとだね」と声をかけられた。実は猿翁は彌十郎を気にかけ、一門を離れた後もテレビなどで出演している番組は必ず見ていたことを周囲から聞かされたという[4]

主な出演

テレビドラマ

配信ドラマ

映画

配信映画

シネマ歌舞伎

歌舞伎名作撰

  • 「スーパー歌舞伎 ヤマトタケル」 (2004年)(※1995年新橋演舞場上演) - 熊襲兄タケル/伊吹山の山神[25]
  • 「野田版 研辰の討たれ」 (2007年) (※シネマ歌舞伎と同内容)
  • 「棒しばり・年増・共奴」 (2007年) - 『棒しばり』曽根松兵衛 役(※収録しているのはシネマ歌舞伎と同内容の2004年4月歌舞伎座公演[26][27]
  • 「女殺油地獄」(※シネマ歌舞伎と同内容)

テレビ番組

ラジオドラマ

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脚注

参考文献

外部リンク

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