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塩川長満

戦国時代から安土桃山時代の武将。伯耆守。子に塩川頼面(愛蔵) ウィキペディアから

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塩川 長満(しおかわ ながみつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将伊丹親興は従兄弟にあたる。

概要 凡例塩川 長満, 時代 ...

生涯

天文7年(1538年)、摂津国国人塩川国満の子として誕生。母は継室の伊丹氏(龍照院)。

はじめ三好氏に属したが、永禄11年(1568年)、上洛した織田信長に従属。2万石を安堵された。同年8月、信長の野田・福島攻囲戦にも従っている。天正元年(1573年)、室町幕府15代将軍足利義昭と信長が対立すると、『尋憲記』に義昭に味方した松永久秀の与党に「シヲカワ」(正しくは「シホカハ」)が載せられていることから織田氏と敵対したようだが、天正3年(1575年)には京都相国寺に信長を訪問して馬を与えられているので、ほどなく信長に降ったと推測される。またこの頃、摂津の一職守護であった荒木村重に属したとみられる。しかし天正6年(1578年)に村重の謀反が発覚した際にはいち早く信長に報告しており、感状を送られている。「穴織宮拾要記」によると、同年12月28日には村重方から所領である摂津の加茂村、栄根村、 栄根寺を焼き討ちされたとされる。天正8年(1580年)の花隈城攻めにも参戦した。同年9月17日、対立する近隣の豪族・能勢頼道を多田に誘殺した。これは能勢が信長の召し出しに応じなかったためとされる。天正9年(1581年)8月、他の摂津衆や池田恒興と共に、明智光秀の与力として中国地方出陣の命が下され、同年9月には鳥取城攻めに援軍を派遣している。天正10年(1582年)5月にも中国攻めの命が下るが、これは本能寺の変の勃発により中止、長満は羽柴秀吉に書状を出し、畿内の様子を注進。秀吉軍と合流して、山崎の戦いでは先鋒となって活躍した。天正14年(1586年)、6月頃より重病となり、10月5日に病死(『高代寺日記』)。長満には実子・愛蔵と養子・辰千代がいたが、後継者争いの末に愛蔵が跡を継いだものの、その冬のうちに塩川家は取り潰しになったという。また『多田雪霜談』では、かねてから遺恨があり紛争を重ねてきた能勢氏に対し、当主の能勢頼次九州征伐で不在の間にその領地を襲ったため、秀吉に咎められて片桐且元池田輝政堀尾吉晴に攻められて自刃したという逸話を記している。

娘が信長の嫡男・織田信忠に嫁いでおり、織田秀信の生母とする説もある[1]

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脚注

参考文献

外部リンク

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