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壱岐 (戦艦)
大日本帝国海軍の軍艦 ウィキペディアから
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壱岐(いき、旧字体:壹岐)は、日本海軍の戦艦(のち海防艦)[3][4]。 艦名は、旧国名「壱岐国」に因む[5]。 日本海軍の法令上は旧字体の壹岐だが[6]、本項目では壱岐と表記する。 1915年(大正4年)10月4日、裕仁親王(のち昭和天皇)および東郷平八郎元帥が観戦する中(御召艦榛名)、標的艦として撃沈処分された[7][8]。
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艦歴
要約
視点
「壱岐」は、元はロシア帝国の艦隊装甲艦インペラートル・ニコライ1世(ロシア語: Император Николай I)であった[5][9]。ロシア帝国海軍時代には、一時はバルチック艦隊の最有力艦艇であり、旗艦を務めたこともあった。
「インペラートル・ニコライ1世」はバルチック艦隊に所属して日露戦争に参加、ニコライ・ネボガトフ少将指揮下の第3艦隊(第3太平洋艦隊)に所属し、ネボガトフ少将の旗艦としてウラジオストクに向かう[10]。航海中の1905年(明治38年)5月27日、バルチック艦隊は日本海軍(連合艦隊、司令長官東郷平八郎大将、旗艦三笠)と交戦する。 戦闘で負傷したジノヴィー・ロジェストヴェンスキー提督は大破した旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」から駆逐艦「ブイヌイ」に脱出、艦隊の指揮権はネボガトフ提督(旗艦ニコライ1世)に委ねられた[11][12]。 翌5月28日、ネボガドフ提督指揮下のロシア側5隻は連合艦隊に包囲され、降伏する[13](日本海海戦)[14][15]。 本艦と同時にオリョール、アプラクシン、セニャーヴィンも降伏した[16][17]。「イズルムード」のみ逃走に成功した[16][18][19]。
6月6日、日本海軍は捕獲したロシア軍艦5隻を改名する[6][20]。 「オリョール」は戦艦「石見」、「アドミラル・セニャーヴィン」は海防艦「見島」、駆逐艦「ベドーヴイ」は「皐月」[20]、「ゲネラル・アドミラル・アプラクシン」は海防艦「沖島」、そして「インペラートル・ニコライ1世」は戦艦「壱岐《壹岐》」と命名された[3][5]。 同日附で5隻(石見、壱岐、沖島、見島、皐月)はそれぞれ軍艦籍に編入される(壱岐は二等戦艦籍)[21][22]。 本艦は、横須賀鎮守府籍と定められた。
同年10月23日、東京湾で凱旋観艦式(明治天皇御召艦浅間、先導艦八重山)が行われる[23][24]。元ロシア海軍艦艇(相模《ペレスウェート》、丹後《ポルタワ》、壱岐、沖島、見島)等も凱旋観艦式に参列した[25][24]。 12月12日、壱岐は一等海防艦に類別される[4][26][27]。翌年、佐世保工廠での修理が終わる[10]。
1915年(大正4年)5月1日、「壱岐」は帝国軍艦籍[28]および艦艇類別等級表から除籍される[29]。本艦は標的艦として処分されることになった。 同年10月1日、熱田神宮参拝を終えた大正天皇皇太子の裕仁親王(のちの昭和天皇)は[30]、東宮御学問所総裁東郷平八郎・同幹事小笠原長生・東宮侍従長入江為守・海軍元帥井上良馨等と名古屋港より駆逐艦「樺」を経由して巡洋戦艦「榛名」(第一艦隊司令長官吉松茂太郎)に乗艦する[31][7]。 10月2日の射撃予定は、悪天候により延期された[32]。 10月3日の射撃予定も、「壱岐」の曳索切断のため中止となる(皇太子は上陸して二見興玉神社の夫婦岩を見学)[33][34]。 10月4日午前10時15分以降、皇太子(榛名座乗)や東郷元帥が見学する中、三重県鳥羽沖(伊勢湾沖合)で金剛型巡洋戦艦2隻(金剛、比叡)は「壱岐」に対する実弾射撃を開始した[2]。射撃前、東郷元帥は皇太子に「壱岐」の艦歴や日本海海戦当時の状況を説明している[8]。 射撃されて十数分後、「壱岐」は右舷に傾斜して転覆し、沈没した[2]。 10月26日、横須賀海軍工廠長は「壱岐」の模型を裕仁親王に献上した[35][36]。
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年表
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艦長
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- 梶川良吉 大佐:1905年6月14日 - 1905年11月2日
- 西紳六郎 大佐:1905年12月20日 - 1906年8月30日
- 森義太郎 大佐:1906年8月30日 - 1907年8月5日
- 奥宮衛 大佐:1907年8月5日 - 8月10日
- (兼)奥宮衛 大佐:1907年8月10日 - 1908年2月20日
- (兼)築山清智 大佐:1908年2月20日 - 1908年4月1日
- 築山清智 大佐:1908年4月1日 - 12月10日
- 上村経吉 大佐:1909年5月25日 - 1910年7月16日
- 吉島重太郎 大佐:1910年7月16日 - 12月1日
- (兼)東郷静之介 大佐:1910年12月1日 - 1911年4月1日
- (兼)久保田彦七 大佐:1911年4月1日 - 5月22日
- (兼)矢島純吉 大佐:1911年5月22日 - 12月1日
- (兼)東郷静之介 大佐:1911年12月1日 - 1912年12月1日
- (兼)今井兼胤 大佐:1912年12月1日 - 1914年5月29日
- (兼)岡田三善 大佐:1914年5月29日 - 1915年5月1日
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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