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大原重実
幕末の公家、明治期の官僚・華族 ウィキペディアから
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大原 重実(おおはら しげみ)は、幕末の公家、明治期の官僚・華族。旧名・綾小路俊実(あやのこうじとしざね)[2]。
経歴
山城国京都で、大原重徳の息子として生まれる[1]。幼名は常丸。
天保8年1月(1837年)叙爵し、その後、備後権介に任官[1]。安政元年12月(1855年)綾小路有長の養子となり俊実と改名[1][2]。侍従に就任[1][2]。文久3年3月(1863年)濫りに諸藩士と交わったことにより閉居を命ぜられた[1][2]。
慶応4年1月(1868年)滋野井公寿と共に赤報隊の盟主に擁立されたが、活動中の金穀強要などを咎められ召喚令が出され帰京した[2]。同年1月24日(2月17日)大原家復籍と相続を命ぜられ、名を重実に復した[2]。同年2月30日(3月23日)海軍先鋒となり、以後、海軍先鋒総督、江戸鎮台補、関八州監察使、左近衛権少将、権弁事、弁官事、東北諸藩賞罰取調掛、皇居造営御用掛、公議所議長、兼制度寮副総裁などを歴任[3]。明治2年6月2日(7月10日)戊辰の戦功により賞典禄100石を永世下賜された[3]。以後、領客使、第一次酒田県知事、外務省七等出仕、同六等出仕などを歴任[3]。1873年1月17日、父・重徳の隠居により家督を相続[4]。1875年12月5日、外務少丞、1877年1月11日、外務少書記官に就任した[3]。同年9月、自邸で強盗に襲われ死去した[1][2]。
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系譜
脚注
参考文献
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