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大杉守一

日本の海軍軍人 ウィキペディアから

大杉守一
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大杉 守一(おおすぎ もりかず、1892年〈明治25年〉3月11日 - 1948年〈昭和23年〉8月28日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍中将

概要 大杉 守一, 生誕 ...

経歴

1892年3月11日、静岡県で父・大杉喜三郎の子として生まれる。弟に吉岡忠一海軍中佐がいる。海軍兵学校41期海軍大学校25期卒。同期には、兵学校で木村昌福市丸利之助、大学校では柳本柳作加来止男らがいる。大佐時代の1941年には、日本軍占領下で成立した中国親日政権「南京国民政府汪兆銘政権」に日本海軍顧問団首席指導官(中国威海衛海軍要港部)として派遣され、新中国海軍の整備育成(日華基本条約)[1]に尽力し、日華防共作戦や日中戦争処理等に多大な成果を挙げた[2]。1943年11月2日ブーゲンビル島沖海戦に第十戦隊司令官として参戦。同月11日のラバウル空襲において軽巡洋艦「阿賀野」座乗指揮中、敵機機銃掃射により重症を負う。1944年1月26日第二十三特別根拠地隊司令官に任命され、インドネシアマカッサルに着任。終戦後、蘭印マカッサル裁判(マニラ軍事裁判)で死刑判決。1948年8月28日公務死。これに先立つ同年3月、公職追放の仮指定を受けた[3]

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年譜

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脚注

参考文献

関連項目

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