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天龍 (スループ)

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天龍 (スループ)
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天龍(てんりゅう)は、大日本帝国海軍の軍艦。艦種はスループになる[2]。艦名は長野県愛知県静岡県天竜川にちなんで名づけられた[8]

概要 天龍, 基本情報 ...
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概要

海門の姉妹艦として横須賀造船所(後の横須賀海軍工廠)で建造された[20]1894年(明治27年)からの日清戦争に従軍、1898年(明治31年)に艦艇類別等級標準が制定されて三等海防艦とされた[8]日露戦争にも従軍[8]1906年(明治39年)除籍、雑役船に編入され[3]舞鶴海兵団練習船として用いられたが[9]1911年に廃船となり売却された[3]

艦型

3バーク[15]スループ[2]海防艦とする文献もある[12][15]。 『#Conway(1860-1905)』では海門と同型艦のスクリュー・コルベット(screw corvette)に分類している[21]。 また『日本海軍艦船名考』では巡洋艦と称している[8]。 船材は[8]、 横須賀造船所で建造する木造船体の軍艦は天龍が最後になった[9] (次の建造艦「葛城」では骨木皮となる[22])。 計画要目は以下の通り。

  • 垂線間長:63.74m、最大幅:9.86m、深さ:計画:6.11m、吃水:前部4.70m、後部5.30m、排水量:1,372英トン、トン数:925トン、速力12ノット、乗員205名[2]

1885年(明治18年)1月に竣工前の重心検査を行った所、復原性能の不足が判明した[9]。 このため竣工時には艦隊へでは無く、横須賀鎮守府へ引き渡して、横須賀造船所で舷側水線部にバルジを装着した[9]。 このバルジは水線幅を増加する目的であり、吃水線上下の限定的な範囲だった[9]。 バルジの外面、内面共に木材で作られ、片舷約460mmで水線幅は海門より960mm増加した[9]

機関

機関は「海門」と同一である[23]。 (機関の詳細は「海門#機関」を参照)。 蒸気圧力は65ポンド/平方インチに上昇した[2] (『帝国海軍機関史』によれば「海門」と同じ60ポンド/平方インチ[13])。 また青銅製スクリュープロペラは「海門」が4翼に対し、天龍は2翼[9]と、 形状を変更した[24]

公試成績
さらに見る 実施日, 種類 ...

また日露戦争前の成績として1,167馬力、12ノットという値もある[17]

兵装

表の兵装は『横須賀海軍船廠史』による[2]。 その他の文献による兵装は以下の通り。

  • 『日本近世造船史明治時代』:17cm砲1門、15cm砲1門、12cm砲4門、7.5cm砲1門、1インチ機砲4基[4]
  • 『聯合艦隊軍艦銘銘伝』:17cm砲1門、15cm砲1門、12cm砲4門、その他[3]
  • 『Conway(1860-1905)』:5.9インチ砲1門、4.7インチ砲4門、3インチ砲1門、1インチ機砲4基[21]

改装

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改装後の天龍(1900年11月)[25]

日清戦争後に呉海軍造船廠で改装工事を行った[25]。 帆装の簡易化、煙突の固定、艦橋の新設、艦首をクリッパー型から直線型に改めた[25]。 また1900年(明治33年)1月(上記改装と同時)に呉海軍造船廠で同形式の新ボイラー4基に交換した[23]

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艦歴

要約
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建造

1877年(明治10年) 6月15日に横須賀造船所が250馬力軍艦(後の海門)の設計の認許を求めた時に、同時に同一艦をもう一隻建造することを上申したが、その時は追って指令するとなった[26][5]。 横須賀造船所では着手済みの艦の作業手順を整理するなどを行い、改めて11月24日に建造の認可を至急求め、12月1日に建造が裁許された[5]

1878年(明治11年) 2月9日起工[6]。 2月19日、横須賀造船所で建造中の2隻は海門天龍と命名され[27][注釈 1]、 翌20日に横須賀造船所は最初に着手した艦を海門、次の艦を天龍と決定したことを発表した[6]

1883年(明治16年) 2月26日、天龍の等級は三等とされた[28]。 8月18日午後4時から進水式が行われた[7]。 有栖川宮熾仁親王、有栖川宮威仁親王、小松宮彰仁親王、伏見宮貞愛親王、梨本宮菊麿王や大木参議、山縣参議、伊藤参議、黒田内閣顧問、川村海軍卿などが横浜港から横須賀まで蒼龍丸に乗船、進水式に臨席した[7]

1884年(明治17年)12月17日「龍驤」「天龍」が中艦隊に編入された[29]

1885年(明治18年) 2月26日に公試運転を行い、3月5日に竣工、横須賀鎮守府に引き渡された[9]。 5月16日「天龍」は中艦隊から除かれた[30]。 竣工後は横須賀造船所で引き続きバルジ装着工事を行い、翌1886年(明治19年)春に就役した[9]

1886年

1886年(明治19年) 5月26日に長崎港を出港、以後朝鮮での警備を行い[31]、 翌1887年(明治20年)1月12日に長崎に帰着した[31]

1890年

1890年(明治23年) 8月23日に第一種に定められた。

1891年-1893年

1891年(明治24年) 10月31日、呉港を出港し、清国での警備を行い[31]1893年(明治26年) 3月15日長崎に帰着した[31]

日清戦争

1894年(明治27年) 7月23日に天龍佐世保港を出港、2日後の25日に日清戦争が開戦となった[31]天龍大連旅順威海衛攻略作戦等に参加、 1895年(明治28年) 5月2日に佐世保港に帰国、5月13日に日清戦争は終戦となった[31]

1896年

1896年(明治29年) 1月18日に呉港を出港し、台湾方面で活動した[31]。 8月25日鹿児島に帰国した[31]

1897年

1897年(明治30年) 6月26日に呉港を出港し、台湾方面で活動した[31]。 11月26日に火災事故を起こした。

1898年

1898年(明治31年) 1月29日、台湾方面より鹿児島に帰国した[31]。 3月21日、艦艇類別等級標準が制定され、天龍三等海防艦に類別された[3]

日露戦争

日露戦争では神戸港の警備に従事した。

除籍

1906年(明治39年) 10月20日に除籍され、雑役船に編入[3]舞鶴海兵団練習船となって舞鶴軍港に定係された[9]

1911年(明治44年) 4月1日廃船訓令[32]、 12月21日売却訓令[33]1912年(明治45年)3月25日に売却された[10]

艦長

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

  • 三浦功 少佐:1884年12月16日 - 1887年10月27日
  • (心得)平尾福三郎 少佐:1887年10月27日 - 1888年6月20日
  • (兼・心得)片岡七郎 少佐:1888年6月20日 - 1889年5月15日
  • (兼・心得)有馬新一 少佐:1889年5月15日 - 1890年5月13日
  • (兼・心得)松永雄樹 少佐:1890年5月13日 - 9月17日
  • (心得)沢良煥 少佐:1890年9月17日 - 9月25日
  • (兼・心得)沢良煥 少佐:1890年9月25日 - 1891年4月6日
  • (心得)遠藤喜太郎 少佐:1891年7月23日 - 1893年5月20日
  • (心得)世良田亮 少佐:1893年5月20日 - 12月13日
  • 世良田亮 大佐:1893年12月13日 - 1895年7月29日
  • 遠藤増蔵 少佐:1895年11月15日 -
  • 徳久武宣 少佐:1896年12月4日 - 1897年4月17日
  • 山田彦八 少佐:1897年4月17日 - 5月29日
  • 磯野健 少佐:1897年5月29日 -
  • 有川貞白 少佐:1897年10月26日 - 1898年2月10日
  • 矢島功 中佐:1898年2月10日 - 12月3日
  • 福間隆家 中佐:1898年12月3日 - 1899年3月22日
  • 高桑勇 中佐:1899年3月22日 - 1899年6月3日
  • 加藤重成 大佐:1899年6月3日 - 12月25日
  • 丹羽教忠 中佐:1901年3月23日 - 1902年3月3日
  • 高橋助一郎 中佐:1902年3月3日 -
  • 上村経吉 中佐:1906年5月10日 - 1906年9月28日
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脚注

参考文献

関連項目

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