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妻木頼黄
建築家 (1859-1916) ウィキペディアから
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妻木 頼黄(つまき よりなか[注 1])は、日本の建築家で、大蔵省営繕の総元締めとして権勢を誇った技官。明治建築界の三大巨匠の一人と呼ばれた。工手学校(現工学院大学)造家学科教員、建築学博士。
幕末の旗本の長男として江戸で生まれ、工部大学校造家学科(のちの東京大学建築学科)に入学するが中途退学してコーネル大学建築学科に留学。卒業後は現地の建築事務所で実務を修行して日本に戻ると、公務員として働く。大蔵省で数多くの官庁や監獄[2]ほかの建築を手がけ、明治時代の官庁営繕の組織と管理手法を確立した[3]。
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経歴
1859年、江戸の生まれで幼名は久之丞、父は旗本・妻木源三郎頼功(御使番衆1千石[4])上総妻木家の養嗣子で11代当主、父方の祖父は上郷妻木氏7代の頼幸である。1862年に父は長崎表御用の任地で没した為、久之丞は3歳で12代当主を継ぐ。
妻木は数えの18歳になる明治9年(1876年)、家屋敷を売却し渡米するが、日本で学ぶよう諭され帰国。1878年には工部大学校造家学科(のちの東大建築学科)に入学しジョサイア・コンドルに学び[注 2]、辰野金吾の後輩に当たる。23歳になる1882年、卒業まで1年を残して同学を退学するとアメリカに渡ってコーネル大学建築学科3年に編入、同学で学士号を授けられて卒業する[注 3]。ロバートソン事務所(ニューヨーク)で修行して1885年に帰国した。
東京府に勤務した妻木は1886年、議院(国会議事堂)建設の組織である(内閣)臨時建築局に出仕する。この年にエンデ=ベックマンの示した官庁集中計画が決まり、その一環として[3]プロジェクト発注先の事務所があるドイツの議院視察が提議され[6]、渡辺譲や河合浩蔵、職人らとともに視察に出かけて1888年に帰朝する。上下水道システム[7][8]、窓に用いる板ガラスの製造[9]など技術系の先端情報を伝え、また建築に関する法規にも目を配ってドイツ政府[10]、フランス政府[11][12]が定める建築条例など妻木は見聞した知識を発表するが、議院は結局、建築予算を優先して[13]木造の仮建築のまましのぐことになり、本建築の建設は見送られた。
大蔵省技官として港湾や税関、煙草・塩の専売など国の税務に関わる施設の建設、工務の運営管理に当たる[注 4]妻木は、東京府の庁舎を仕上げた[17]。
1894年、日清戦争の戦端を開いた政府に、大本営の置かれた広島に臨時議院(広島臨時仮議事堂)を建設するよう求められると、妻木は短期日で完成させ[18]、この功績で叙勲された。また、奈良の東大寺大仏殿修復にも関わった。
1901年欧米を視察、同年、工学博士号を授かる。
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国会議事堂の建設
→「ヴィルヘルム・ベックマン」および「山尾庸三」も参照
工部大学校の恩師コンドルが進めた東京の都市計画と中核をなす議院(国会議事堂)建設に、妻木も意欲を燃やした。臨時建築局は1888年(明治21年)に山尾庸三を総裁に迎え、官庁集中計画が引き直される[13]と、予算優先に舵が切られた。
日露戦争後、桂内閣のもとで再び議院すなわち国会議事堂の建築機運が盛り上がるが、辰野金吾らは公開コンペ開催を要求し、議院の設計を進めていた[3]妻木らを専横と批判した。第3次桂内閣が大正政変のため1913年に総辞職して倒れると議院建築の計画も棚上げされ、妻木は官職を辞任して野に降る。木造の議院は、妻木の生前に煉瓦もしくは石材に改められることはなかった。
栄典
- ???? - 広島に臨時議院(広島臨時仮議事堂)を1894年に短期日で完成させた功績で叙勲。
- 1896年(明治29年)6月15日 - 勲六等単光旭日章[19]
- 1900年(明治33年)6月30日 - 勲五等瑞宝章[20]
- 1904年(明治37年)12月27日 - 勲四等瑞宝章[21]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲三等瑞宝章[22]
- 1913年(大正2年)5月20日 - 正四位[23]
- 1916年(大正5年)10月10日 - 勲二等瑞宝章[24]
学位
- コーネル大学学士号
- 1901年、工学博士号
作品

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主な著作
要約
視点
- 書籍
- 妻木 頼黄『営繕局設置に関する書類』[出版者不明]、1902年。 NCID BB28136134。
論文
以下、いずれも日本建築学会『建築雑誌』(ISSN 0003-8555)に載せた論文。現代表記に改めた。
- 単著
- 「ドイツ伯林府(ベルリン)に於ける下水管およびこれに付属せる培養地」第28号、1889年4月、CRID 1574231877058512768。
- 「伯林(ベルリン)の水道(第28号の続)」第31号、1889年7月、CRID 1574231877059165568。
- 「ガラス製造法」第46号、1890年10月、CRID 1573668927105755264。
- 「家屋に関する仏国(フランス)の法律条例及び布告(承前)」第48号、1890年12月、CRID 1571698602268848384。
- 「伯林府(ベルリン)建築条例抜粋」第48号、1890年12月、CRID 1573387452129105920。
- 「仏国(フランス)建築条例法律及び布告(承前)」第59号、1891年11月、CRID 1572543027238585088。
- 「仏国(フランス)建築條例法律及び布告(承前)」第63号、1892年3月、CRID 1570572702361116544。
- 「室内装飾用御影石及び大理石艶出の法(日本美術協会雑誌抜萃)」第75号、1893年3月、CRID 1570009752407604736。
- 「東京府庁舎新築報告」第78号、1893年6月、CRID 1573950402081687680。
- 「広島に於ける仮議事堂について」第107号、1895年11月、CRID 1571698602267863808。
- 「巣鴨監獄建築説明書」第112号、1896年4月、CRID 1573950402082518400。
- 「新築3裁判所庁舎建造の大要」第122号、1897年2月、CRID 1571135652314994432。
- 「建築と法律との関係について」第216号、1904年12月、CRID 1574231877059388160。
- 「建築材料としての本邦木材」第297号、1911年9月、CRID 1571698602194865536。
- 「建築材料としての本邦木材(承前)」第298号、1911年10月、CRID 1573105977078419200。
- 「建築材料としての本邦石材」第300号、1911年12月、CRID 1571417127291377024。
- 「建築材料としての本邦石材(2)」第301号、1912年1月、CRID 1570572702288027520。
- 「建築材料としての本邦石材(4 完結)」第302号、1912年2月、CRID 1570291227311331072。
- 共著
- 伊東 忠太、大澤 三之助、葛西 萬司、片山 東熊、吉井 茂則、辰野 金吾、武田 及一、曾根 達蔵、塚本 靖、寺野 精一、志賀 重列、清水 釘吉「中村教授に関する諸家の談話 : 我が中村先生」『建築雑誌』1913-12、324号、680-689ページ。CRID 1570009752334455424。
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参考文献
脚注の典拠。主な執筆者、編者の順。
- 石川 孝重、平田 京子「東京市建築條例妻木案が果たした役割: 構造関連規定の成立過程に関する研究」『日本建築学会構造系論文報告集』第397巻、日本建築学会、2017年12月25日、32-41頁、doi:10.3130/aijsx.397.0_32、ISSN 0910-8025。 Online ISSN 2433-0000。
- 清水 英範「明治政府の官庁集中計画におけるベックマン条約に関する研究」『土木学会論文集D2(土木史)』第72巻第1号、2016年、1-19頁。
- 清水 英範、石井 浩一郎「山尾庸三の官庁集中計画に関する研究」『土木学会論文集D2(土木史)』第75巻第1号、公益社団法人 土木学会、2019年、32-51頁、doi:10.2208/jscejhsce.75.32、ISSN 2185-6532、CRID 1390564238077762816。
- 『特別叙勲類纂』 上巻《死没者》、総理府賞勲局、1983年、842頁。
- 平山 育男「J・コンドルによって実施された明治20(1887)年から明治21(1888)年における議事堂建築用の石材調査について」『日本建築学会計画系論文集』第83巻第751号、日本建築学会、2018年、1765-1771頁、doi:10.3130/aija.83.1765、ISSN 1340-4210、CRID 1390001288073618560。
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脚注
関連作品
関連項目
外部リンク
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