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姚国楨
中国の官僚・政治家・教育者 ウィキペディアから
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姚 国楨(よう こくてい、1883年 – 没年不明)は、清末民初の官僚・政治家・教育者。字は幼枝[1][4]。北京政府では安徽派と目され、交通行政部門で各職を歴任した。後年、冀東防共自治政府や中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会に参与している。
事績
要約
視点
北京政府時代
京師大学堂を卒業。清末は広西軍事公債局北京駐在代表をつとめた。
中華民国成立後の1912年(民国元年)7月20日、北京政府で交通部総務庁編製科科長に任命され、以後、交通部でほとんどの官歴を重ねることになる。1914年(民国3年)2月25日、交通部統計委員会副会長に就任し、1916年(民国5年)には交通部の電政・郵政・航政の各司で司長代理をつとめる。翌1917年(民国6年)、交通部で郵政総局局長や参事を歴任した。1919年(民国8年)12月3日、靳雲鵬内閣で交通部次長に任命され、統一鉄路会計会会長や交通銀行幇理、経理公債処処長なども兼任した[5] 。
1920年(民国9年)7月26日、安直戦争で安徽派が敗退したため、姚国楨も交通部次長など各職を辞任する[5]。直隷派の意向により大総統・徐世昌から逮捕令を発せられたため、朱深や弟の姚震らと共に日本公使館へ逃げ込んだ。1922年(民国11年)、姚震や呉光新らと天津に逃れ、反直隷派の活動に従事している[1][2][3][4]。
第2次奉直戦争後に段祺瑞が復権すると、1924年(民国13年)11月12日に姚国楨は全国薬酒事務署督弁に任命された。翌1925年(民国14年)9月5日には、関税特別会議委員会委員となる。しかし1926年(民国15年)に段が再び失脚したため、姚は4月20日に各職を辞任して天津に逃げ込んだ[5]。1927年(民国16年)2月29日、北京交通大学校長に任命され[5]、同年中に政治討論会会員になった[2][3][4]。
親日政権時代
国民政府時代において、姚国楨は基本的に天津に閑居していた(姚震は1935年死去)。冀東防共自治政府が成立すると、姚は顧問として起用されたという[6]。
王克敏らが中華民国臨時政府を創立すると、姚国楨もこれに参与する。1938年(民国27年)4月8日、姚は振済部次長(総長:王揖唐)として起用された[7]。ところが同年9月18日、臨時政府の行政改革により振済部は廃止されてしまう[8]。振済部総長の王揖唐は内政部総長に転じたが、姚は他の地位に改任されることなく、そのまま下野した。
1940年(民国29年)3月30日、南京国民政府(汪兆銘政権)に臨時政府が合流し、華北政務委員会が成立する。4月2日に姚国楨は国民政府中央で立法院立法委員に選出されたが、翌1941年(民国30年)4月17日に免ぜられている[9]。華北政務委員会では、1941年1月21日に長蘆塩務管理局局長代理として任命され[1][10]、3月7日には華北墾業股份有限公司董事長を兼任していた[11]。8月13日、華北河渠建設委員会委員も兼任している[12]。1944年(民国33年)2月11日、長蘆塩務管理局局長代理から青島特別市政府建設局局長代理へと異動になった[13][注 1]。
その後の姚国楨の行方は不詳である。
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家族
注釈
- 中国共産党新聞網(2009)は「1942年死去」としているが、明らかに誤り。
出典
参考文献
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