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宇佐美敏晴

日本のプロ野球選手 (1947-2018) ウィキペディアから

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宇佐美 敏晴(うさみ としはる、1947年8月5日昭和22年〉 - 2018年平成30年〉6月19日[1])は、愛媛県[2]出身のプロ野球選手投手)。

概要 基本情報, 国籍 ...
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来歴

西条高校では、1965年夏の甲子園予選北四国大会の県予選準々決勝に進出するが、北宇和高に敗退。三塁手右翼手もこなし、夏の甲子園県予選では右翼手、三番打者として打率.250をマークした。宇佐美選手は投手、三塁手、外野手と 広いポジションをこなし、 また打っては三番打者として強打を発揮した。 三年生、182㌢、72㌔、右投げ右打ち。

1965年のドラフト会議読売ジャイアンツから6位指名され入団[2]。読売ジャイアンツ、セ・リーグ巨人は、西条高投手、 宇佐美敏晴選手(18)の入団を発表した。

宇佐美選手(18)の話 「すきな道だから、野球をやる以上、 プロでやりたいと夢をもっていた。 しかも一番好きなジャイアンツに入団することが できたのだから、こんなうれしいことはない。 自分のもつ力をいっぱいだしきって一生懸命勉強し、 りっぱな選手になりたい。 藤田コーチもいることだから投手としてやっていきたい。 それがわたしを育ててくれた人たちへの ご恩返しと思っています。まだ背番号はわかりませんが、 二月五日から宮崎のキャンプに参加しろということなので、 その時に新しいユニホームを着ます[3]。」

1967年にはジュニアオールスターに出場。同年10月11日広島を相手に一軍初先発。10月14日には中日との対戦で5回からリリーフ、その後を無失点で投げ抜きプロ初勝利を記録した。10月16日大洋との最終戦でも先発するが、早々に打込まれ降板。翌年以降は故障もあって一軍での登板機会はなく、外野手への転向を図るが、1970年限りで引退[2]。上手からの速球とドロップを武器とした。

引退後故郷に帰り1971年に地元で会社を設立[2][4]。西条リトルの総監督も務めた[2][4][5]

2018年6月19日、癌により死去した[4]。亡くなった後に親友の堀内恒夫が宇佐美の元に駆けつけ、エピソードが綴られている[4][6]

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人物

エピソード

  • 堀内恒夫とはドラフトの同期入団で、親友である[5]。宇佐美が引退後に愛媛で生活してから、堀内が愛媛の野球のイベントに来る際は参加したり、食事をしたりと親交が続いていた[4][5][7][8][9][10]
  • 「ハーフみたいな顔立ちで男前」と堀内が語っている[11]

家族

  • 高校時代から付き合って結婚した妻[4]と3人の娘がいる[6]

詳細情報

年度別投手成績

さらに見る 年 度, 球団 ...

背番号

  • 47 (1966年 - 1970年)

関連項目

脚注

外部リンク

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