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安藤治久

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安藤 治久(あんどう はるひさ、1937年4月3日 - )は、静岡県伊豆の国市出身の元プロ野球選手投手)。

概要 基本情報, 国籍 ...

来歴・人物

市立沼津高では1954年秋季中部大会県予選準々決勝に進むが、エース松浦三千男を擁する静岡商に日没引き分け再試合の末に敗退。卒業後は大昭和製紙へ進む。1956年都市対抗では2勝を挙げ準決勝進出の立役者となるが、熊谷組根来広光東京鉄道管理局から補強)に抑えられ敗退[1]1958年都市対抗は、1回戦で丸善石油西五十六と投げ合い、延長15回の熱戦となるが引き分けに終わり、再試合で敗退した[1]。この引き分け試合では6三振を喫し、都市対抗の延長戦での1試合最多三振を記録する。

1959年阪急ブレーブスへ入団[2]。同年は4月末から先発陣の一角に入り8勝を挙げる。1960年5月15日には西鉄若生忠男との投手戦に投げ勝ち、1-0で初完封勝利を記録した。その後もチームの中堅として主に先発で起用されるが、球団の整理対象となり1964年8月に任意引退扱いで退団。その後、阪急側の了解を得て中日ドラゴンズの入団テストを受けるが、結局不採用となり現役を引退した。

米田哲也梶本隆夫の2投手で支えていた低迷期の阪急ブレーブス(通称:ヨネカジコンビ時代)で、2人に次ぐ年間登板数を重ねていた。オーバースローとスリークォーターを使い分け、カーブとシュートを武器とした。

1960年6月12日西鉄ライオンズ戦で勝利投手になり、これは阪急の歴代右投手があげた1000勝目。阪急(オリックス)は伝統として右投げの名投手が多く、2005年シーズンまでの通算4360勝のうち、3500勝が右投手によるものである。2000勝目は1976年山口高志、3000勝目は1995年野田浩司があげている。

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詳細情報

年度別投手成績

さらに見る 年 度, 球団 ...

背番号

  • 14 (1959年 - 1964年)
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脚注

関連項目

外部リンク

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