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若生忠男

日本のプロ野球選手 (1937-1998) ウィキペディアから

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若生 忠男(わこう ただお、1937年8月22日 - 1998年[1])は、宮城県仙台市出身のプロ野球選手投手)・コーチ解説者

概要 基本情報, 国籍 ...

1970年シーズンの登録名は若生 忠泰(わこう ただやす)。

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経歴

東北高校時代は若生智男若生照元と共に「東北の三若生」と呼ばれたが、甲子園には届かなかった[2]

1955年西鉄ライオンズへ入団。

1957年には6月から先発陣の一角となり9勝を挙げ[3]、同年の巨人との日本シリーズでも最終戦の第5戦に先発し、チームの2年連続日本一に貢献。背番号が見えるくらい全身を捻り下手投げからキレの良い変化球を投げる「ロカビリー投法」で一世を風靡。

1960年には初の2桁勝利となる13勝、同年のオールスターにも選出されるが出場を辞退した。

1962年には自己最高の14勝を挙げ、初の規定投球回に到達してリーグ5位の防御率2.42を記録。

1963年には12勝を挙げてリーグ優勝に貢献し、同年の巨人との日本シリーズでは第2戦にリリーフとして登板。

1964年8月30日の東映戦(後楽園)では先発登板するが、球審に暴言を吐いたり土を蹴散らすなどして退場処分となった[4]

1965年は7月頃からリリーフ中心にシフトチェンジし、この当時は「8時半の男」と呼ばれていた巨人宮田征典に対して「8時45分の男」を自称していたことがあった[5]

1966年7月15日から17日の阪急戦(平和台)では3日連続で救援勝利を記録[6]し、同年は3年ぶりの2桁勝利となる12勝を挙げ、防御率1.54の好成績をマーク。

1967年9月17日の阪急戦(西宮)では、米田哲也と投げ合いノーヒットノーランを達成した。

1968年には通算100勝を挙げるが[7]、シーズン成績は4勝12敗に終わる。

読売ジャイアンツへ移籍した1969年には3勝を挙げる。3勝中2勝は広島戦で挙げたものであった。同年の阪急との日本シリーズでも3試合に登板する。

1970年限りで現役を引退。

引退後はテレビ西日本フジテレビTVKテレビ解説者(1971年 - 1974年1979年頃 - 不明)を経て、1975年に1年間だけロッテオリオンズ一軍投手コーチを務めた。1998年死去。62歳没。

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詳細情報

年度別投手成績

さらに見る 年 度, 球団 ...
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

初記録
節目の記録
その他の記録

背番号

  • 38 (1955年 - 1959年)
  • 18 (1960年 - 1962年)
  • 21 (1963年 - 1968年)
  • 28 (1969年)
  • 24 (1970年)
  • 83 (1975年)

登録名

  • 若生 忠男 (わこう ただお、1955年 - 1969年)
  • 若生 忠泰 (わこう ただやす、1970年)
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参考文献

脚注

関連項目

外部リンク

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