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安達ヶ原

福島県二本松市にある地名 ウィキペディアから

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安達ケ原(あだちがはら)とは、福島県中通り地方に属する二本松市にある地名である。古くは、陸奥国安達郡の地名であり、現在の二本松市及び周辺の地名を指していたと考えられている。日本文学作品や日本古典芸能作品にも表れる地名である。

なお鬼婆伝説をともなう「安達ヶ原」という地名は青森県五戸町や埼玉県さいたま市大宮区にもある(後者は「足立ヶ原」という説もあり)。

地名の由来

安達郡前史

古代律令制において、七道制及び国郡里制がひかれ、その内東山道内に陸奥国安積郡が置かれた。

安達郡の成立

延喜六年正月九日(906年2月5日安積郡から入野・佐戸の2郷を割き新たに安達郷を立てて3郷からなる安達郡を分立した(『延喜式』民部省頭註)。この頃までには、東山道の駅伝制度が確立し、安達(旧:安達町)及び湯日(旧:油井村?)の駅が置かれたと推定されている[1]。但し、駅伝制度によれば、30里(約16km)に付き駅が置かれたとあるため、距離としては湯日が本宮または郡山、安達が二本松または安達の可能性が高い[2]

結論

よって「安達ケ原」という名称は、「安達(又は安達郡)にある野原」位の意味であると推定されており、その付近を指していたと思われる。このため、平凡社世界大百科辞典などの記述では、安達太良山南東麓の本宮盆地を指している可能性も指摘されている。なお、寛政12年(1800年)に秦檍麻呂らによって描かれた「大日本國東山道陸奥州驛路圖 5巻」には、二本松城市が郡山寄りに描かれ、由井沢が福島寄りに描かれている。その距離は7丁とある。また、大平村黒塚も描かれている[3]

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地区の地理

要約
視点

現在の安達ケ原地区は、江戸末期においては、安達郡大平村の北部にあったと考えられている[4]。大平村の二本松市への編入により、現在は安達ケ原と呼ばれるようになった。市内東部を流れる阿武隈川が東へ屈曲する東岸に位置する台地状の地形部にある[5]。なお、江戸時代から明治期に整備された奥州街道国道4号)は、阿武隈川の西側に位置しており、直接的に安達ケ原地区に接続していたわけではない。そのため、後述する松尾芭蕉正岡子規が「黒塚」を訪問した時には、油井村との間に敷設されていた渡し船(供中の渡し)を通って、訪問したものと考えられる。

なお、安達ケ原地区は、昭和23年1948年)に福島県によって指定された、霞ヶ城県立自然公園の一部をなしている。そのため、公園面積の比率の大きな地区でもある。

公共施設

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公園施設

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史跡[6][7]

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その他の史跡としては、油井村との間に渡し船(供中の渡し)があり、その地は安達ヶ橋の50から60メートル下流にあったと推定されている。

日本文学史上の足跡

歴史的には、元禄2年(1689年)に松尾芭蕉が「おくのほそ道」を執筆中に、地区内にある「黒塚」へ立ち寄り、明治26年(1893年)7月22日に正岡子規も同じく立ち寄ったとされている[8]。また、和歌集に出て来る歌人の内、東国に赴任した者が居て、その地に立ち寄りはしなかったが、安達郡を治めていた郡司からの話により、歌を詠むきっかけを得たものが居たと思われる。

日本文学との関係

地区においては、鬼婆伝説が伝承されており、歌謡の枕言葉となった「黒塚」も地区内にあるとされる。更に、古今和歌集において、「とりもの=(猟師)」作とされた歌があり、遥か昔より猟師が住んでいた事もうかがわせる。実際に、「続日本紀」によれば霊亀1年(715年)には、「勧農の詔が出て、関東地方の民一千戸を陸奥に移し開拓させる」とある[9]。しかしながら、まだ未熟な農業技術であり、半農半狩の文化が存在しており、高度な弓を作る技術も伝承されていたと考えられる。それが故に、安達といえば名産品が「真弓」という朝廷側の認識もあったと思われる。

鬼婆伝説との関係

「鬼婆(地区では"いわて"と称される)伝説」に直接関連する場所、並びに、鬼婆の遺品とされる展示物を扱っているのが、真弓山観世寺であるとされる。真弓山観世寺の内部に存在する、正岡子規の句碑があり「涼しさや聞けば昔は鬼の家」と詠んだとされる[10]。正岡子規が立ち寄ったのは、歌枕にある「黒塚」を自らの目で確かめることによって、古典日本文学における「真」を追求しようとしていたからと思われる。

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日本文学等への影響

要約
視点

拾遺和歌集平兼盛の歌により「安達ケ原」は伝説と結びつくことになり、文学作品の題材やモチーフとして使われるようになった。詳細は「黒塚」の項、参照の事。ただし、以下の和歌にもあるように、その他の和歌では、鬼伝説または鬼婆伝説と結びつくようなものはない。なぜ鬼婆伝説が生まれたのかについては定かではないが、古代律令の時代、特に坂上田村麻呂蝦夷討伐遠征以降、東山道陸奥方面においては、刑罰としての流罪(つまり、罪を犯したものが居住地を追われ流された)の場所としての意味合いがあった可能性がある。そのため、当該地においては蝦夷対策として、または俘虜が東山道を通じて都までこないようにするための作り話であった可能性も否定できない。

なお、和歌に於て「真弓(まゆみ)」という言葉が出てくるが、「(ひのき)= japanese cypress」で作られた「(bow)」の事であり安達地方の名産品として、朝廷へ献上された事によるものと解釈されている。これは、古代律令制における税制である「租庸調」の内、調(絹織物や名産品)を朝廷へ収めた事によるものと推定されている。

安達ケ原に関する和歌(例)[11][12]

以下の和歌は、引用元のサイトより。

さらに見る 短歌, 収録歌集 ...

鬼婆伝説に関連する作品名(例)

以下の作品群は、検索キーワード”あだちがはら”もしくは”安達ケ原”にて、DuckDuckGoで検索した結果である。

さらに見る 種別, タイトル ...
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脚注

関連項目

外部リンク

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