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寂念

1113?-1187?, 平安時代末期の僧、貴族、歌人。藤原為忠の子。官位は従五位上・皇后宮大進・加賀守。勅撰集『千載和歌集』以下に5首入集 ウィキペディアから

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寂念(じゃくねん)は、平安時代後期の貴族歌人。俗名は藤原 為業(ふじわら の ためなり)。藤原北家長良流、丹後守藤原為忠の次男。官位従五位上皇后宮大進。通称は伊賀入道

概要 凡例寂念 / 藤原為業, 時代 ...

経歴

文章生から鳥羽院政期初頭の大治4年(1129年少内記に任ぜられ、崇徳天皇六位蔵人も務める。伊豆守伊賀守を歴任後、仁平元年(1141年)より中宮権大進皇后宮大進として、近衛天皇の中宮(のち皇后)藤原呈子に仕えた。

保元3年(1158年)頃に出家し東山の霊山に隠棲する[2]。法名を寂念と称し、同じく出家した兄弟の寂超寂然と共に大原三寂常盤三寂と呼ばれた。寂超・寂然は主に大原に閑居したが、寂念が大原に住んだかどうかは明らかでなく、主に常磐にいたと想定される[3]

若い頃より父・藤原為忠が主催する歌合に度々参加し、九条兼実藤原重家俊恵源頼政平忠度等とも親交が厚く、各地の歌合にも招かれている。寿永元年(1182年)に作られた『一品経和歌懐紙』の作者とされ、死去したのはそれ以後とされている。なお、文治3年(1187年)子の範玄が季御読経を重喪を理由に辞退しており[4]、これを範玄の親すなわち寂念の死による喪とする説もある[5]

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人物

弟2人よりも後世の評価は低いとされるものの、当時を代表する歌人として知られ、『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に6首が入集。落ち着きのある歌風で知られた。

官歴

系譜

  • 父:藤原為忠
  • 母:橘大夫(橘俊宗?)の娘 - 待賢門院女房
  • 生母不詳の子女
    • 男子:藤原為賢
    • 男子:藤原業盛
    • 男子:藤原経業
    • 男子:藤原雅業
    • 男子:寛忠
    • 男子:範玄(1137-1199)
    • 女子:二条院三河内侍

脚注

出典

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