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富岡定恭
日本の海軍軍人 ウィキペディアから
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富岡 定恭(とみおか さだやす、1854年12月24日(嘉永7年11月5日) - 1917年(大正6年)7月1日)は、日本の海軍軍人、華族。最終階級は海軍中将。男爵。
経歴
信濃国松代城下馬場町に松代藩海防隊隊長・富岡宗三郎定知の長男として生まれる。藩校文武学校を経て、1876年(明治9年)9月、海軍兵学寮(5期)を首席卒業。1878年(明治11年)までイギリス海軍戦艦「オーディシャス」(HMS Audacious)に乗組。海兵教授、艦政局兵器課、英仏派遣、造兵監督官(イギリス)、海軍大学校教官などを歴任。日清戦争では「厳島」副長として参戦。
さらに、「龍田」艦長、海軍兵学校教頭、「八雲」艦長、「敷島」艦長、軍令部第1局長を経て、1903年(明治36年)7月、海軍少将に進級。日露戦争においては早期開戦を求める山座円次郎、秋山真之ら湖月会の一員であった。戦中は海軍兵学校長を務める。その後、練習艦隊司令官を勤め、1907年(明治40年)3月、海軍中将となり、竹敷要港部司令官、旅順鎮守府長官を勤め、1911年(明治44年)12月、予備役に編入された。1914年(大正3年)11月5日、後備役となる[1]。
1914年から1917年(大正6年)まで帝国在郷軍人会副会長を務める。1907年(明治40年)9月、男爵を叙爵し華族となる。
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栄典
- 位階
- 1883年(明治16年)12月25日 - 正七位[2]
- 1890年(明治23年)1月17日 - 従六位[3]
- 1895年(明治28年)3月8日 - 正六位[4]
- 1898年(明治31年)3月8日 - 従五位[5]
- 1903年(明治36年)4月20日 - 正五位[6]
- 1907年(明治40年)5月10日 - 従四位[7]
- 1909年(明治42年)5月21日 - 正四位[8]
- 1911年(明治44年)12月20日 - 従三位[9]
- 勲章等
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親族
脚注
関連事項
参考文献
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