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富重利平

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富重 利平[1](とみしげ りへい、天保8年4月15日[2]1837年5月19日) - 大正11年(1922年2月7日)は、明治時代写真家

上野彦馬より写真術を習得し、彼と共に日本写真界の草分けとして活躍した。熊本で写真屋を開き、軍部の依頼で焼失前の熊本城その他を撮影。明治時代の風景、人物など貴重な記録を写真に残した。富重写真館は代々続き現在も存在する。

生涯

『冨重利平の作品集』より、森下功編の略年表による。

  • 天保8年(1837年) - 筑後国柳川鍛冶屋町にて出生。
  • 安政元年(1854年) - 長崎に行き商売を志す。
  • 文久2年(1862年) - 荒物商を辞め、写真術を習得するため長崎今下街の写真師・亀谷徳次郎[3]に入門。
  • 元治元年(1864年) - 上野彦馬に入門。
  • 慶応2年(1866年) - 郷里の柳川で開業。
  • 明治3年(1870年
    • 4月 - 肥後高瀬藩主・細川利永の招きにより、玉名市で開業。
    • 8月15日 - 元家老米田是豪(或いは大参事是保)の招きで熊本市新堀町で開業(文献によっては、細川藩の家老長岡監物とある)[4]
  • 明治4年(1871年) - 陸軍少将井田譲を撮影。同人の依頼で旧藩邸を撮影。井田および県吏の内藤貞八のたっての頼みで上京を中止。県庁から月給50円をやると言われたが自由が束縛されるので、それは断った。新町に開業。
  • 明治5年(1872年) - この頃より、熊本城・山崎練兵場・水前寺公園などの撮影を開始。
  • 明治9年(1876年) - 塩屋町に住居・写真場を作る。
  • 明治10年(1877年) - 西南戦役前の熊本城を撮影。兵火により写真場が焼けた後は仮写真場を作る。軍の依頼で戦跡を撮影。塩屋町明十橋通りの現在地に住家・写真場を再建。
  • 明治11年(1878年) - 谷干城など軍幹部を撮影。その後、熊本各地の写真を撮影する。
  • 明治24年(1891年)10月10日 - 熊本の写真師同盟を作り会長となる。
  • 明治26年(1893年) - 第6師団長・北白川宮能久親王を撮影。親王に写真術を指導。
  • 明治32年(1899年) - 自宅内に私立英語夜学校を設立。数年間教育する。
  • 明治36年(1903年) - 熊本商業会議所副会頭。
  • 明治40年(1907年) - 大日本写真師大会にて全国来賓総代。
  • 明示42年(1909年) - 富重写真館の月収1000円。
  • 明治43年(1910年) - ドイツドレスデンの万国衛生博覧会に水前寺の写真を出品。長男の名前を使う(ドレスデンのドイツ衛生博物館の資料によると1911年とあるから、投稿した年の次の年に開かれている。[5])。
  • 大正8年(1919年) - この年より熊本医専の卒業アルバムを担当する。
  • 大正11年(1922年)2月7日 - 死去。葬儀には熊本市長が弔辞を述べる。安国寺に葬られる。
  • 昭和38年(1963年) - 熊本県近代文化功労者に選定される。
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開業当時

開業当時は湿板法であったので、出張撮影の時は暗室の準備が必要であった。写真師は魔法使いと思われ気味悪がられたが、鎮台の兵士が来て大繁盛した。兵営に入り御用を勤めたので後に陸軍大将となる乃木希典川上操六児玉源太郎にも親しく出入りした。

乃木希典と利平

利平は乃木から、西南戦争で焼けた所を写してほしいとの依頼を受け、3日間彼の車に従って歩き、写真を撮影した。仕事の後、乃木からは「お前も大分戦争でひどい目にあったが金を持たんだろう。今日写したのを数千枚焼付けてくれ。金は一度にやっとく。この写真は今度の戦争で怪我をした人にやるつもり。たくさんの枚数で長くかかるだろうがそれはかまわぬ。」との声をかけられた。乃木の写真も現在に残っている。

性格

写真業界で価格競争が激しくなっても、利平はその間に先進技術の練磨に努め、研究を重ねた。また、彼は温厚篤実で人と争うことを好まず、社会公共のためには協力奉仕を惜しまず、衆望を負って種々の役職を引き受けて熊本市の発展に尽した。各種の救援、慈善事業、学校教育事業に多額の私財を寄付している。

撮影した人物、風景

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明治初期(1874年)の熊本城、富重利平の作品

など

脚注

文献

観覧項目

外部リンク

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