トップQs
タイムライン
チャット
視点
菅原宣義
ウィキペディアから
Remove ads
菅原 宣義(すがわら の のぶよし、? - 寛仁元年4月22日(1017年5月20日))は平安時代中期の官人、学者、文人。式部大輔・菅原文時の孫。官位は正四位下・文章博士。
経歴
長保2年(1000年)から寛弘6年(1009年)まで大内記を務め、寛弘7年(1010年)、右少弁に登る。この間、東宮学士を兼ね、寛弘6年(1009年)11月・12月には敦良親王(後朱雀天皇)に『漢書』『後漢書』を読書した[1]。また、長保5年(1003年)11月27日と28日の作文会に参加し、題を出し、序を書いた[2]。
寛弘8年(1011年)、後一条天皇即位時の奉表を作成した[3]。その他に、法務大僧正・勧修の辞表[4]、冷泉天皇の三十五日法事の御願文[5]、藤原彰子が亡き一条天皇の為に営んだ講説の願文[6]、長和2年の仁王会の呪願文[7]、藤原道長五十賀の寿命経5000巻の巻数の文[8]を作成している。
寛弘9年・長和元年(1012年)、文章博士として新元号を勘申する[9]。このとき、藤原道長は「『寛仁』を勘申せよ」と宣義ともう一人の文章博士・大江通直に度々言ったものの、二人は出典が見つけられないとして、その勘申を拒んだ(詳細は寛仁#藤原道長の執着)[10][11]。
長和4年(1015年)5月、仁王会の呪願文を頼まれたが、病の為、参入しなかった[12]。同月22日、大風により自宅が倒壊し、自他の児童七人と共に閉じ込めらた。幸いにして、全員が怪我もなく救助された[13]。
長和6年・寛仁元年(1017年)、新元号を勘申するも、直後の4月22日に死亡したため、忌むべきものとして候補から外された[14][15]。
Remove ads
文化活動
宣義は大江匡房が一条朝の「天下の一物」に挙げた文士の一人であり[16]、漢詩が『本朝麗藻』に2首、『類聚句題抄』に9首載っている[17]。
また、寛弘8年(1011年)に『三略』を加点しており、その正和2年(1313年)写本が重要文化財に指定されている[18]。
官歴
系譜
『尊卑分脈』による
登場作品
脚注
参考文献
関連項目
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads