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菅原宣義

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菅原 宣義(すがわら の のぶよし、生年不詳 - 寛仁元年4月22日1017年5月20日))は、平安時代中期の官人学者・文人。式部大輔菅原文時の孫、左衛門尉・菅原惟熙の子。官位正四位下文章博士

概要 凡例菅原 宣義, 時代 ...

経歴

文章生から式部丞を経て、長保2年(1000年)から寛弘7年(1010年)まで大内記を務める。この間、東宮・居貞親王の東宮学士を兼ね、寛弘6年(1009年)11月と12月には敦良親王(のち後朱雀天皇)に『漢書』『後漢書』を読書した[1]。また、長保5年(1003年)11月27日と28日の作文会に参加し、題を出し、序を書いている[2]

寛弘7年(1010年)右少弁に遷り、寛弘8年(1011年)正月に弁官の労により従四位下に叙せられるが、まもなく弁官を去って兵部権大輔に転任された。同年6月に居貞親王が践祚三条天皇)した際、宣義は践祚の奉表を作成した[3]。なお、同年の三条天皇の即位にあたって、宣義は東宮学士の功労により正四位下に叙せられた可能性もある。またこの頃、以下のような文書を作成している。

寛弘9年・長和元年(1012年)の改元の際、文章博士として新元号を勘申する[9]。このとき、藤原道長は「『寛仁』を勘申せよ」と宣義ともう一人の文章博士・大江通直に度々命じたが、二人は出典が見つけられないとして、その勘申を拒んだ(詳細は寛仁#藤原道長の執着[10][11]

長和4年(1015年)5月に仁王会の呪願文を頼まれたが、病の為、参入しなかった[12]。同月には大風により自宅が倒壊し、自他の児童七人と共に閉じ込めらるも、幸いにして全員が怪我もなく救助されている[13]

長和6年・寛仁元年(1017年)の改元にあたって新元号を勘申するも、直後の4月22日に没したため、宣義の勘申したものは忌むべきものとして候補から外された[14][15]

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人物

大江匡房が一条朝の「天下の一物」に挙げた文士の一人であり[16]、漢詩が『本朝麗藻』に2首、『類聚句題抄』に9首採録されている[17]

また、寛弘8年(1011年)に『三略』を加点しており、正和2年(1313年)の写本が重要文化財に指定されている[18]

官歴

尊卑分脈』によれば、他に侍従菅原氏長者侍読治部丞式部権大輔

系譜

尊卑分脈』による

登場作品

澤田瞳子『月ぞ流るる』では「変わり者の文章博士」として登場する[27]

脚注

参考文献

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