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寶川石五郎

元力士 ウィキペディアから

寶川石五郎
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寶川 石五郎(たからがわ いしごろう、1816年文化13年〉[1] - 1858年8月26日安政5年7月18日〉)は、雷部屋に所属した力士[2]大坂相撲時代には朝日山部屋、東京へ移行してからは粂川部屋にも所属していた。本名は佐伯 石五郎

概要 性別, 国籍 ...

経歴

身長,体重とも不明だが、体格は大きく3尺(約90cm)の入り口では常に体を斜めにして入ったと伝わる。出身地は現在の香川県観音寺市(旧・讃岐国豊田郡[2]

最高位は西前頭筆頭。丸亀藩の抱え。

最初は4代朝日山(真鸖政吉)の弟子として大坂相撲で取り、その後東上して1840年10月初土俵(序二段附出し)。1848年1月新十両(東二段目10枚目となり十両相当となった)。1849年3月場所では7勝1敗1分の好成績を挙げ、優勝相当成績[3]を挙げた。1850年11月場所に新入幕。1852年1月場所では西前頭7枚目で、7勝2敗1休の優勝同点[4]1853年7月8日嘉永6年6月3日)、アメリカ海軍ペリー浦賀に来航した際には、幕府が与えた200俵の米俵を何と一気に8俵もの米俵を担いで積み込んだというエピソードも残っている[5][6]。幕内では僅か1場所しか負け越しが無く、しばしば優勝争いに絡み、当時の大関小柳常吉には3勝を挙げるなど得意にしていた[7]。しかし番付運が非常に悪く、遂に三役以上を経験する事は出来なかった。1858年1月場所後、当時江戸市中に流行したコレラ[8]に罹り、7月18日に死去。43歳(41歳及び42歳説もあり[1])だった。

幕内通算 15場所 62勝28敗12分2預29休の成績を残した。優勝相当成績1回(十両時代の1849年3月場所)。

改名歴は3回ある:鷲ヶ嶽→本山→寳川 石五郎。

墓は豊島区南蔵院[7]。また、歌川国貞によって描かれた浮世絵が現存し、江戸東京博物館に収蔵されている[9]

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出典

関連項目

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