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小室翠雲

1874-1945, 日本画家、南画家 ウィキペディアから

小室翠雲
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小室 翠雲(こむろ すいうん、1874年明治7年〉8月31日[1] - 1945年昭和20年〉3月30日)は、明治時代から昭和前期に活躍した日本画家南画家。本名は貞次郎(ていじろう)[2][3]。号には翠雲のほか、翠湖翠雲衜人長興山人佳麗庵など[4][3]文展・帝展審査員、帝国美術院会員、帝室技芸員などをつとめた。

概要 小室 翠雲, 生誕 ...

生涯

要約
視点

1874年明治7年)、栃木県邑楽郡館林町(現・群馬県館林市)で[5][2][3]呉服商を営む父・牧三郎、母・ふきの長男として生まれる[5][3]。父・牧三郎は、谿邨の号で文人画もたしなんでいた[5][3]

翠雲は館林小学校に入学[5][3]。小学校時代に善導寺の満成和尚に書を、画家の岡戸仙渓や岸浪柳渓から絵を習った[5][3]1887年(明治20年)館林小学校中等科を退学し、上京して印刷工となるが1年ほどで帰郷[5]。帰郷後沼田の青木翠雲に師事し、その号から1字とって翠湖を号した[5]1889年(明治22年)足利の画家・田崎草雲に入門[5][3]。師匠のもとへ住み込みで画業の修業に励み、草雲からその父と同じ翠雲の号を授かった[5][3]

1898年(明治31年)師・草雲が死去[5][1]1899年(明治32年)には荒井閑窓の依頼によりその菩提寺である常光寺に144枚の格天井画(館林市指定文化財)を描いている[5][3]。1899年(明治33年)上京し[5]日本美術協会に参加[5][2][3]1900年(明治34年)には足尾鉱毒事件を訴える上京農民に加わるが東京で拘束を受ける(川俣事件[5]。日本美術協会展で入選を重ねる[5]

1907年(明治40年)文展開設にあたっては文展新派に対抗し、高島北海荒木十畝田中頼璋らと正派同志会を結成[5][2]。副委員長として活動した[5]。文展には1908年(明治41年)の第2回から出品[5][2][3]。受賞を重ね[5][2]1913年大正2年)第7回文展に出品した《寒林幽居》は二等賞を受賞して宮内省買い上げとなった[5][3]1914年(大正3年)の第8回文展で審査員に任命される[5][2]1918年(大正7年)ごろに箱根に長興山荘を建てる[5]1919年(大正8年)の第1回帝展においても日本画部の主任審査員を務めた[5][3]

1921年(大正10年)矢野橋村らとともに日本南画院を設立[5][2]1924年(大正13年)には帝国美術院会員となり[5][2][3]正五位に叙された[5]1930年昭和5年)永平寺の二祖禅師六百五十回忌記念式典に際し《老松に鷹》《竹と梅》の障壁画を描く[5][3]。同年ベルリンで開催された現代日本画展に際しては、親善使節の代表としてドイツに渡った[5][2][3]

1936年(昭和11年)には日本南画院を解散[5]1937年(昭和12年)帝国芸術院が設置されるとその会員となる[5]。同年南画連盟が結成されるとその顧問に推される[5]。同年の第1回新文展では審査主任を務め、翌年の第2回からは顧問となる[5]1940年(昭和16年)に伊豆山の麓に佳麗庵を営み、箱根の長興山荘から画室を移した[5]1941年(昭和16年)大東南宗院を創設[5]。同年、群馬県美術協会が設立されると初代会長に就任した[5][3]

1944年(昭和19年)7月1日、帝室技芸員に選任される[6][5]

1945年(昭和20年)3月30日、東大病院で死去[5]。戒名は長興院殿鳳徳南宗翠雲大居士、墓所は多磨霊園[5]1971年(昭和46年)に館林の千眼寺にも墓が建てられている[5][3]

弟子に岸浪百草居(静山)、矢野鉄山、宮原柳僊、高橋暉山など[7]明治大学教授を務めた歴史学者・小室栄一は甥(弟・佐四郎の子)かつ養子[8]

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主な作品

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脚注

参考文献

関連人物

外部リンク

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