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小栗正信

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小栗 正信(おぐり まさのぶ)は、江戸時代旗本小栗流の創始者。通称は仁右衛門。信由(のぶよし)とも[1]

概要 凡例小栗 正信 / 小栗 信由, 時代 ...

来歴

徳川家康小姓を務めた小栗忠政の次男。柳生新陰流柳生宗厳に入門した。

家康に小姓として仕え、御膳番を務めた。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣に従軍し、佐久間実勝と共に伊達政宗の陣に赴き、旗を巻くようにという仰せを伝えた。翌年の大坂夏の陣では、天王寺・岡山の戦いにおいて敵兵の首を獲っている。元和2年(1616年)、家督を長兄・政信が継いだため、分知550石を武蔵国足立郡にもらって旗本になり、江戸柳生の柳生宗矩に学んだ。また、徳川秀忠の元で小姓組番士となる。寛永10年(1633年)2月7日、上総国長柄郡で200石を加増され、750石を知行する[1]

関ヶ原の戦いや大坂の陣に出兵した経験から組討の必要性を感じ、駿河鷲之助と和術を編み出した。小栗流は刀術を表、和術を裏としている。

正信の門人に山鹿素行土佐藩士・朝比奈可長がおり[2]、小栗流は土佐藩にも広まった。後に坂本龍馬も目録伝授されている。

寛文元年(1661年)6月6日に73歳で死去[1]

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脚注

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