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小野石根

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小野 石根(おの の いわね)は、奈良時代貴族大宰大弐小野老の子。官位従五位上左中弁従四位下

概要 凡例小野石根, 時代 ...

経歴

孝謙朝末の天平宝字元年(757年従五位下叙爵淳仁朝では南海道節度副使長門守と地方官を務める。

天平宝字8年(764年藤原仲麻呂の乱の後に造宮大輔に任ぜられる。称徳朝末の神護景雲3年(769年近江介に任ぜられ再び地方官に転じ、翌神護景雲4年(770年)の称徳天皇崩御に際しては山陵司を務めている。

光仁朝に入り、左少弁を経て、宝亀5年(774年)従五位上・左中弁に叙任されると、翌宝亀6年(775年中衛少将、のち中衛中将と文武の要職を兼帯する。

宝亀7年(776年大伴益立に替わって、備中守・大神末足と共に遣唐副使に任ぜられる。翌宝亀8年(777年)正月に播磨守に任ぜられ、2月には春日山の麓で遣唐事業の成功を祈願して祭祀を行う[1]。しかし、同年4月に遣唐大使・佐伯今毛人が光仁天皇に出発の暇乞いまでしながら俄に発病し、摂津職に留まって出発できなくなってしまったため、石根がを受けて大使の職務を代行することとなった[2]。なお佐伯今毛人の代わりの大使は立てられず、石根が副使のまま大使の職務を代行を命じられている[3]

同年6月24日に第16次遣唐使一行は出帆し7月3日に揚州海陵県(現在の江蘇省泰州市)に到着。その後一行は長安へ向かうが、安史の乱による駅舎の荒廃を理由に入京人数を43名に制限される。翌宝亀9年(778年)正月に長安に到着し貢ぎ物を進上、3月には皇帝代宗への拝謁も果たす。同年9月より一行は順次帰国の途につき、石根や唐の送使・趙宝英が乗った第一船は9月5日に出航するが、外海に達した8日に暴風が発生し高波を受けて船は中央からに分断し沈没。趙宝英らと共に石根は水死した[4]

宝亀10年(779年)石根の水難を悼んで従四位下の贈位がなされた。

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官歴

注記のないものは『続日本紀』による。

系譜

脚注

参考文献

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