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山川二葉

日本の教育者 ウィキペディアから

山川二葉
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山川 二葉(やまかわ ふたば、弘化元年8月19日1844年9月30日〉 - 明治42年〈1909年11月14日)は、日本の教育者 [1]

概要 山川 二葉, 生誕 ...

略歴

要約
視点

陸奥国会津藩若松城下(現在の福島県会津若松市)にて、国家老山川重固とえん(艶;会津藩士西郷近登之の娘)の長女として生まれる。弟妹は[3]、三輪、健次郎、常磐、さき(捨松[4][* 1]万延元年(1860年)に父が死去した当時、二葉は数え17歳で、16歳の浩が家督を継いだ[5]

明治維新以前、後に家老職に就く梶原平馬[3]と婚姻したものの、短期間で離縁して復籍(離縁日時は不詳)、一子景清(慶応2年11月16日[6])は二葉が養育した。

旧暦明治元年8月-9月(1868年10月-11月)の会津城籠城戦において、その家柄故に山川家の人々は相応の役割を果たし、婦女子は調理と配布、負傷者の看護、旧式銃弾の製造と補充などの業務に当たった[7]。また、いざという時は、自刃できぬ幼い妹ら(常盤とさき)を一緒に危めることを母より申し付けられたという[8]。降伏後、婦女子は塩川村での謹慎を命じられ、会津松平家の斗南藩(旧盛岡藩領北部)への移封決定とともに、明治3年(1870年)には山川家も他の藩士家族と共に移住、明治4年(1871年)には藩庁が設置された田名部に居を構えた[8]。しかし、同年の廃藩置県で斗南藩も廃止となり、山川家は新暦1873年(明治6年)に上京した[9]

二葉は1877年(明治10年)12月より東京女子師範学校お茶の水女子大学の淵源)に寄宿舎長として雇われ、1881年(明治14年)7月以降は安達安とともに舎中取締を務めた[1]

1884年(明治17年)2月には文部省より東京女子師範学校御用掛(准判任)として正式に任用され、1885年(明治18年)8月の東京師範学校との合併により東京師範学校御用掛(准判任)として生徒取締を務め、高等師範学校への改編に伴い1886年(明治19年)6月より同校舎監(判任官八等)に任じられた[1](1885年8月当時の東京師範学校校長は同郷で籠城戦を共にした高嶺秀夫で、翌1886年3月からは実弟山川浩が現役陸軍軍人として校長職を兼務、高嶺は教頭となり、当該人事は高等師範学校への改編後も1891年まで継続された)。

1890年(明治23年)3月の女子高等師範学校の分離独立後も、引き続き同校舎監(判任官五等)に任用され、1891年(明治24年)8月には助教諭兼舎監心得、1892年(明治25年)2月以降は教諭兼舎監に任じられた。1903年(明治36年)の官制改正により生徒監に就任後、翌1904年(明治37年)に依願退官した(勤続28年)。この間、官等においては、1895年(明治28年)の高等官八等(奏任)を皮切りに、退官前年には高等官五等まで陞叙された。[1]

1909年(明治42年)11月14日、喘息気管支カタルを併発し、東京市赤坂区檜町の自宅で死去[2]享年66。

一人息子の景清は梶原姓を継ぎ、海軍軍医として呉海軍工廠軍医長などを務め軍医大佐に昇進[10]、創設以来の稚松会会員[11]。一男一女を儲け、長女清子は石川栄耀の妻となった[12]

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栄典

還暦を迎え健康が思わしくないことから退官を願い出たところ、1904年に特旨をもって従六位より二級昇級、従五位に叙せられた[1][* 2]

  • 1892年(明治25年)4月8日 - 従八位
  • 1895年(明治28年)6月21日 - 正八位
  • 1897年(明治30年)7月10日 - 従七位
  • 1900年(明治33年)11月10日 - 正七位
  • 1904年(明治37年)3月30日 - 従六位
  • 1904年(明治37年)10月24日 - 従五位

脚注

参考文献

関連文献

関連項目

外部リンク

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