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山田重英
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山田 重英(やまだ しげふさ)は、戦国時代から安土桃山時代の武士。徳川家康の家臣。
生涯
尾張源氏の一流である山田氏の末裔で、『岡崎東泉記』によれば家康の嫡男である岡崎城主松平信康の重臣・鳥居久兵衛[注釈 3]の家臣だったという[7][8]。永禄6年(1563年)三河一向一揆蜂起の際には戸田忠次・鳥居重正らとともに佐々木上宮寺に入って一揆方に与している[9][10]。
天正3年(1575年)同輩の小谷甚左衛門[注釈 4]に誘われ、大賀弥四郎らの計画する武田氏内通の謀議に加わる。しかし重英は途中で思い直して事の次第を信康に報じ、大賀弥四郎らの陰謀を事前に食い止めることとなった。この功により碧海郡柿崎に500石の加増を受け、後に同郡大浜や額田郡上地も加増された。上の経緯から「訴人八蔵」の異名があったという。
天正16年(1588年)岡崎で同輩の渥美弥三郎[注釈 5]と口論し、殺害された。所領はすべて没収となった。
天正17年(1589年)養子の重次[注釈 2]が仇討ちを果たして認められ、翌年に300石を与えられて家名を再興した[7][2][1][5]。
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関連作品
テレビドラマ
脚注
参考文献
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