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山田隆也
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山田 隆也(やまだ たかや、1890年7月31日 - 1978年6月8日)は、日本の元俳優、宗教家である。本名横川 唯治(よこかわ ただはる)。旧芸名山田 隆彌(やまだ たかや)。
人物・来歴
要約
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1890年(明治23年)7月31日、埼玉県比企郡唐子村(現在の同県東松山市)に生まれる。生家は庄屋を経営していたが、没落して里子に預けられる。
旧制埼玉県第三中学校(後の埼玉県立川越中学校、現在の埼玉県立川越高等学校)を卒業後、弁護士を志望して中央大学法科に進学するが、のちに早稲田大学文科に転入。1905年(明治38年)5月、坪内逍遥の自宅に設立された文芸協会演劇研究所に、同年4月に入所した松井須磨子、佐々木積、武田正憲に加えて、補欠募集で上山草人、加藤精一、森英治郎らと入所し、同所の第1期研究生となる。1911年(明治44年)5月に同所を卒業し、本名の「横川 唯治」を名乗って文芸協会に加入、帝国劇場での同協会第1回公演として、ウィリアム・シェイクスピアの悲劇『ハムレット』(訳坪内逍遙)の全幕上演が行なわれ、横川はギルデンスターン役を演じた。ところが、1913年(大正2年)5月31日に同協会を島村抱月が退会、松井須磨子も諭旨退会処分で去って同年7月には解散。同年10月、森英治郎、佐々木積、加藤精一らと新劇団舞台協会を設立し、同年11月28日から4日間、同じく帝国劇場での同協会第一回公演として、ジョージ・バーナード・ショーの戯曲『悪魔の弟子』(訳舞台協会)、ヴィルヘルム・フォン・ショルツの戯曲『負けたる人』(訳森鷗外、 Der Besiegte, 1899年)を上演した[1]。1918年(大正7年)には、加藤精一、森英治郎、佐々木積、林幹、宮島啓夫らと帝国劇場専属俳優となったが、中でも1921年(大正10年)11月、同劇場で上演された倉田百三の戯曲『出家とその弟子』で、横川が演じた唯円役は当たり役となり、以後主要都市の各座で上演されるようになり、この間に芸名を本名から「山田 隆彌」と改名した。
1922年(大正11年)、かつて日活向島撮影所の幹部俳優であった衣笠貞之助、藤野秀夫、東猛夫、横山運平ら13名が連袂退社したことから、日活の呼びかけで舞台協会と急遽提携入社をなし、1923年(大正12年)3月15日に公開された同協会提携第一回作品である田中栄三監督映画『髑髏の舞』など、数本の作品に出演[2][3]。ところが、同所は同年9月1日に発生した関東大震災で強制閉鎖となり、日活京都撮影所に全面異動となったが、横川は移籍せずに加藤精一、佐々木積、森英治郎、岡田嘉子、出雲美樹子、夏川静江らと新たに同志座を組織する。1925年(大正14年)6月、兵庫県西宮市にあった東亜キネマ甲陽撮影所と提携入社、同年同月25日に公開された阪田重則監督映画『敵と女敵』などに出演し、同座解散後も同所に残留した。
1927年(昭和2年)1月、愛人であり妻であった岡田嘉子は『椿姫』の撮影中、衝動的に俳優の竹内良一とともに失踪。山田の手元には岡田から許しを請う別れの手紙が届いた[4]。
1928年(昭和3年)には、牧野省三率いるマキノ・プロダクションにおいて、牧野の長男・マキノ正博(のちのマキノ雅弘)が所長を務める名古屋撮影所で、鈴木重吉監督の『田中宰相の少年時代』に出演[3]、同年、同社の御室撮影所が製作した『肉弾決笑記』で初監督を果たす[3]。
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フィルモグラフィ
特筆以外はすべて出演、すべて「山田隆弥」名義。
日活向島撮影所
- 1923年
東亜キネマ甲陽撮影所
- 1925年
東京映画
- 1927年 [5]
- 『不滅の光明』 : 監督三沢偶伴、原作前田曙山、脚本長里清
マキノ・プロダクション
- 1928年
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ビブリオグラフィ
註
外部リンク
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