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山霧丸
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概要
山霧丸は東洋汽船、山下汽船および東洋海運向けに7隻が建造された善洋丸型の一隻で[4]、同型船は善洋丸、慶洋丸、山月丸、多摩川丸、淀川丸、加茂川丸[1]。
船歴
要約
視点
大洋興業は山下汽船に傭船される前提で山霧丸・山霧丸等の新造を決定し、三菱重工業横浜船渠に発注した[1][5]。山下汽船では1937年(昭和12年)10月に極東とニューヨーク・南米間の航路を開設し、同航路用の大型型貨物船を必要としていたからであった[6]。建造中、山霧丸は山月丸と共に山下汽船に売却された[2]。
山霧丸は1937年12月6日に起工[1]。1938年(昭和13年)5月13日に進水し[1]、同年7月2日に竣工[1]。船名は山下汽船所有船の「山○丸」という命名慣例に沿って命名された。竣工後は7月23日に神戸から処女航海に出発した[1]。
1941年(昭和16年)9月15日、山霧丸は海軍に徴傭され[1][7]、9月20日に佐世保鎮守府所管の特設運送船(雑用船)として入籍[8]。
1942年(昭和17年)1月、アンボン攻略に参加[9]。陸軍部隊を運ぶ輸送船が第一梯団となり、山霧丸を含む海軍輸送船6隻が第二梯団となった[10]。1月29日0時に第二梯団は第十六駆逐隊の護衛でバンカ泊地より出撃[11]。1月30日23時にヒトラマ泊地に進入し、呉鎮守府第一特別陸戦隊を上陸させた[12]。
9月から10月、陸軍部隊の南東方面への輸送(沖輸送)に従事[13]。山霧丸は佐伯発の第三船団の一隻であった[14]。第三船団は山霧丸と陸軍輸送船かんべら丸(大阪商船、6,477トン)、特設運送船藤影丸(山本汽船、4,004トン)からなり、駆逐艦暁、雷等の護衛で9月29日に佐伯より出発し[14]、10月10日にラバウルに着いた[15]。
1943年(昭和18年)8月25日、山霧丸は特設運送船(給炭油船)朝風丸(山下汽船、6,517トン)、海軍一般徴用船日遼丸(三菱汽船、2,721トン)、陸軍輸送船たこま丸(大阪商船、5,772トン)他輸送船1隻と共にオ605船団を編制し、第38号駆潜艇、第39号駆潜艇、第22号掃海艇の護衛を受けてラバウルを出港しパラオへ向かうが、27日午後、南緯01度49分 東経149度37分のムッソウ島近海でアメリカ潜水艦ドラム(USS Drum, SS-228)の攻撃を受け、右舷2番・3番船倉の間付近に魚雷が命中し損傷[16][17]。山霧丸はラバウルに反転し、到着。同地での応急修理の後、12月2日に陸軍輸送船五星丸(興運汽船、1,931トン)他と共に船団を編制し[18]、ラバウルを出港してトラックへ向かった[16][19]。トラックには12月5日に到着[16]。修理を待つ間、山霧丸の船内では赤痢が蔓延した[19]。
1944年(昭和19年)2月17日、山霧丸はトラック島空襲に遭遇。山霧丸は翌18日の空襲で機関室に2発被弾し、沈没した[19]。乗員12名が戦死した[19]。同年3月31日除籍及び解傭[20]。
現在、山霧丸は秋島(フェファン島)の北、水深33メートルの地点で左舷を下に横転状態で沈んでおり、ダイビングスポットとなっている。2番船倉と3番船倉の間の右舷喫水線下に破孔がみられるが、そのほかは原型をとどめている。船倉内には戦艦用の35.6cm砲弾等がある。
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監督官等
- 監督官
- 坂本正 大佐:1941年9月20日[21] - 1943年5月25日
- 指揮官
- 坂本正 大佐:1943年5月25日 - 1943年6月10日
- 松川晃 中佐:1943年6月10日[22] -
脚注
参考文献
外部リンク
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