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島津忠承
日本の華族、政治家。(1903-1990) ウィキペディアから
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島津 忠承(しまづ ただつぐ、1903年〈明治36年〉5月19日 - 1990年〈平成2年〉8月26日)は、日本の華族。玉里島津家第3代当主。位階・勲等・爵位は正三位勲一等公爵。第8代日本赤十字社社長、結核予防会会長などを歴任した。
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略伝
公爵議員として貴族院議員を長年務める。また、日本赤十字社副社長を経て、1946年(昭和21年)から日本赤十字社社長を務め、当時国交断絶していたソビエト連邦、中華人民共和国に残留した日本人の救出に尽力した。また、1946年(昭和21年)には結核予防会の副会長から会長に昇任した[1]。1949年(昭和24年)6月2日、鹿児島市に昭和天皇の戦後巡幸が訪れた際には、島津忠彦夫妻ともに拝謁する機会を得た[2]。 翌1950年(昭和25年)3月11日には、日本赤十字社社長として皇居に招かれ、皇室一家に赤十字社の創立者であるアンリ・ジュナンの伝記映画『人間同志』について進講、同映画を上映した[3]。同年10月、モナコで開催された国際赤十字連盟第21回理事会に出席し、帰国後の1951年(昭和26年)5月1日、天皇、皇后に理事会に関する進講を行った[4] 1965年(昭和40年)の献血事業に関わる職員の汚職事件の責任をとり、辞任に追い込まれた。1987年(昭和62年)、高松宮宣仁親王斂葬儀の司祭長に就任。墓所は文京区護国寺。
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経歴
- 1903年(明治36年)- 島津忠済の長男として、東京市麹町区三年町に生まれる[5]。
- 学習院女子部幼稚園に入る。学習院初等科、中等科、高等科を卒業[6]。
- 1915年(大正4年) - 初等科在学中に父・忠済が58歳で死去して、家督を継ぐ[7]。
- 1926年(大正15年)- 京都大学文学部に入学、のち法学部に移り、在学中に結婚し、1930年に卒業[8]。
- 1930年(昭和5年) - 日本赤十字社本社に「社会事業調査の嘱託」として入社し、調査部に勤務[8]。当時、日赤社長だった徳川家達の影響を受ける[9]。
- 1933年(昭和8年) - 貴族院公爵議員
- 1937年(昭和12年) - 東京慈恵会理事となる[10]。
- 1940年(昭和15年) - 徳川家達の死去を受けて、日本赤十字社副社長となる[11]。
- 1942年(昭和17年) - 日本赤十字社に捕虜救恤委員部が設置され、委員長となる[12]。
- 1944年(昭和19年) - 財団法人結核予防会副会長となる[13]。
- 1946年(昭和21年)
- 7月19日 - 第8代日本赤十字社社長
- 日付不明 - 結核予防会会長
- 日付不明 - 社団法人三州倶楽部第5代会長
- 1950年(昭和25年) - モナコで開催された赤十字社連盟第21回理事会に出席。欧米における赤十字社の事業を視察した[14]
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栄典
- 1915年(大正4年)
- 1917年(大正6年)1月24日 - 金杯一組[17]
- 1918年(大正7年)12月20日 - 銀杯一組[18]
- 1920年(大正9年)1月28日 - 銀杯一個[19]
- 1923年(大正12年)5月30日 - 従五位[20]
- 1925年(大正14年)
- 1928年(昭和3年)7月2日 - 従四位[23]
- 1932年(昭和7年)7月15日 - 正四位[24]
- 1934年(昭和9年)4月29日 - 勲四等瑞宝章[25]
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[26]
- 1942年(昭和17年)5月12日 - 勲三等瑞宝章[27]
- 1943年(昭和18年)8月16日 - 正三位[28]
- 1973年(昭和48年)11月3日 - 勲一等旭日大綬章
- 外国勲章佩用允許
家族
長男・忠広の夫人、肇子は北白川宮永久王と同妃祥子の第1王女子で、三女・慶子は北白川宮家当主の北白川道久(婚姻当時は既に皇籍離脱していた)に嫁いだことから、忠広と慶子の配偶者はそれぞれ同じ北白川宮家の兄妹になる。
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脚注
参考文献
外部リンク
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