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川口宗勝

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川口 宗勝(かわぐち むねかつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名江戸時代初期の旗本徳川家康ははとこに当たる。

概要 凡例川口 宗勝, 時代 ...

出自

宗勝の祖父・川口盛祐[1]は一族の川口宗持の養子となり、大河内元綱の養女・於富の方(華陽院)を娶り宗勝の父・宗吉を儲けた。於富の方は水野忠政に嫁ぎ徳川家康の生母・於大の方を産み、また家康の祖父・松平清康にも嫁いでいる。

生涯

天文17年(1548年)、川口宗吉の子として誕生。

当初、宗勝は水野信元に仕え[2]永禄6年(1563年)には柴田勝家へ、翌永禄7年(1564年)には織田信長の直臣となり弓大将となる[3]。また、永禄9年(1566年)に木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が墨俣に一夜城を築いた時の野武士の中に宗勝の名が見える[4]本能寺の変後には織田信雄、豊臣秀吉に仕え、伊勢国尾張国内で18000石を領した。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、安濃津城攻めなどに参加するが西軍が敗れると高野山に蟄居し、所領を没収され身柄を伊達政宗に預けられる。慶長11年(1606年)、徳川秀忠に許されて青菅[5]2500石を賜り旗本となった。

慶長17年(1612年)、青菅にて死去。以後、元禄11年(1698年)までの92年間、宗信(孫作)、宗次(久助)、宗恒(源左衛門、摂津守、長崎奉行のちに江戸町奉行)と4代に同地を知行した。

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脚注

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