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川崎型油槽船
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川崎型油槽船(かわさきがたゆそうせん)とは、1933年(昭和8年)から1943年(昭和18年)の間に川崎造船所および川崎重工業(双方とも、以降「川崎」と略する)で建造されたタンカーの形式であるが、「川崎型油槽船」という呼称は川崎自身がつけたものではない。ウィキペディア英文版では "Kawasaki type oiler" としているが、これも英語における正式な呼称ではない。翻訳家で模型製作者でもある岩重多四郎は「東亜丸クラス」、「川崎型タンカー」と呼称している[2]。本項では、英文版からの翻訳および実際にこの呼称を使用している書籍があることを重んじて[注釈 1]、正式な呼称ではないものの、「川崎型油槽船」という名称を使用する。
太平洋戦争突入前に整備された1万トン級タンカー船隊において13隻もの一大勢力を誇り、いずれもが高速を誇って日本への石油輸送に任じたが、太平洋戦争のためすべて軍に徴傭された。戦争によって13隻すべてが失われたが、戦後に一隻が再生して改造の上就航した。本項では主に建造までの背景を説明し、船歴については略歴の形で一覧としてまとめている。単独項目として作成されている船に関しては、そちらも参照されたい。また付録として、同時期に建造された他の造船所建造の1万トン級タンカーについても、比較のため説明する。
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建造までの背景
要約
視点
「虎丸」(スタンダード石油、531トン)[注釈 2]に始まる日本の動力付きタンカーは、早くも1910年(明治43年)建造の「紀洋丸」(東洋汽船、9,287トン)で1万トンに迫る大きさのものができ上がっていた[注釈 3]。1921年(大正10年)建造の「橘丸」(帝国石油、6,539トン)は「典型的近代型油槽船のひな形」とも呼ばれ[3]、日本海軍でも大正時代末期から艦艇燃料を石炭から石油に切り替える事情があって[4]、知床型給油艦や隠戸型給油艦を整備していた。大正から昭和初期にかけては、主に播磨造船所や横浜船渠、三菱長崎造船所で多くの大型タンカーが建造されるようになるが、性能や要目の面で統一感があったわけではなかった[5]。飯野商事(飯野海運)が日本海軍の優秀タンカー建造政策に応えて1931年(昭和6年)に建造した「富士山丸」(飯野商事、9,527トン)は、初めて2条の縦通隔壁を渡して強度を与え、その他機器類なども新型のものを取りそろえて「当時のタンカーの標準型」と目された[6]。その飯野商事は、「富士山丸」と特務艦「野間」の後身である「日本丸」(5,841トン)に続く3隻目の外航タンカーの整備計画を策していた[7]。
一方、長い不況に陥っていた日本の海運業界は、1932年(昭和7年)から始まった船舶改善助成施設で一気に活気づくこととなった[8]。ところが、この助成政策の対象となって建造される船は当初、貨客船と貨物船であって、タンカーは対象外だったが、そこに割って入ったのが日本海軍だった[9]。もともと、船舶改善助成施設で建造される船舶には日本海軍の要求で、甲板までの高さ、船倉口の広さおよび砲を備え付けた際の強度と工事実施の際の経費が盛り込まれており、一朝有事の際には特設艦船に転用できるようになっていたのが船舶改善助成施設で建造される船舶であって、船舶改善助成施設の「裏の目的」[注釈 4]でもあった[9]。さきに述べた日本海軍の優秀タンカー建造政策で建造された「富士山丸」や「帝洋丸」(日東汽船、9,849トン)なども備砲設置位置や速力などの点で海軍側の要求がふんだんに盛り込まれたタンカーではあった[10]。しかし、船舶改善助成施設適用のタンカーをこれまで民間向け大型タンカーを建造した実績のある播磨造船所や横浜船渠、三菱長崎造船所ではなく、民間向けタンカーの建造実績がなかった川崎[11]に建造させるにいたった詳しい経緯ははっきりしない。時系列的に二通りの解釈があって、「日本海軍が飯野商事に川崎でタンカーを建造することを要請した」と[9]、「飯野商事が川崎にタンカー建造を発注し、そこに日本海軍からの要求が盛り込まれることになった」の二つがある[12]。いずれにせよ、川崎が海軍艦艇建造で実績のあったことから艦政本部の指導の下で当該タンカーの建造が進められ[13]、往航時に手ぶらで航行するデメリット対策として生糸搭載スペースが設けられたが、これは有事の際には弾火薬庫に転用できるようになっていた[9]。このように、何かと日本海軍の指導が入りつつ建造されたタンカーが、いわゆる「川崎型油槽船」であった。
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一覧
要約
視点
出典は川崎の記録によるもので、順番は建造番号順である[14]。また、「備考」欄の○印は船舶改善助成施設適用船を示し、●印は優秀船舶建造助成施設適用船を示す(#川崎型以外の1万トン級タンカーでも同様)[15][16]。
特徴
船型は逓信省船舶研究所で研究されたもので、船首はやや前方に傾斜を持たせ、船尾はいわゆる「巡洋艦式」(クルーザースターン)と呼ばれる形状で、「流麗な外観を有する」ものであった[17]。内部区画の形状は事実上前形式にあたる「富士山丸」から継承したもので、2条の縦通隔壁を渡して強度を持たせ、異種類の油を同時に搭載可能なように区切られていた[17][18][19]。上述の弾火薬庫に転用可能な生糸搭載スペースや特殊タンクのほか、洋上給油が可能な設備も建造の時点で揃えており、いつ何時でも戦時使用ができるようになっていた[19]。機関は最終船の「久栄丸」を除いて川崎製のMAN型ディーゼル機関1基を搭載し、「久栄丸」のみは大阪商船の貨客船「あるぜんちな丸」(12,755トン)が搭載していた三菱MS型ディーゼル機関を転用した[20]。
就役
第一船「東亜丸」の竣工後、川崎では続々と同型船を建造していった。その影には、すべての同型船の建造がそうだったわけではないが、海軍出身で川崎の艦船工場長を務めていた吉岡保貞の働きがあった。一例として、浅野物産がタンカーの建造を行うか否かの検討を重ね、いったんは自重と決まったことがあった[21]。その話を所用で上京していた吉岡が聞きつけ、同型船を繰り返し建造していることや国策を持ち出して翻意を求め、話を聞いた浅野物産は自重を撤回してタンカー「玄洋丸」の建造を決めた[22]。吉岡はなぜ浅野物産に翻意を求めたのか。浅野物産との交渉中に行った川崎の社長である鋳谷正輔との電話の中で吉岡は、「かつて浅野物産は損得抜きで海軍に燃料を納入してくれたので、その恩に報いたい」という趣旨のことを話しており、これがきっかけで建造契約が結ばれた[23]。山下汽船が「日本丸」を建造する際にも、海軍の斡旋があった[24]。
会社の新規事業のために川崎型油槽船を求めたところもあった。昭和金融恐慌で破綻した川崎の影響を受けた川崎汽船は、再建の一環としてタンカー事業に乗り出し、海外船の傭船とともに「建川丸」を建造して就航させ、利益をもたらした[25]。また共同漁業(現・日本水産)は、新たに南氷洋捕鯨を行うにあたり、捕鯨船団への補給と鯨油輸送のために優秀船舶建造助成施設を利用してタンカーを発注[26]。これが「厳島丸」となった。その他の同型船も北アメリカやオハ、スマトラ島からの原油輸入に活躍した。運航ペースは「東亜丸」と「極東丸」を例にとると、「往航11昼夜・復航13昼夜・積み荷1日・荷揚げ2日」というもので、「その運航採算はきわめて好調であった」[27]。もっとも、「極東丸」が1938年(昭和13年)に特設運送艦として徴傭され[28]、また「久栄丸」の建造が空母「大鳳」建造の影響[13]で太平洋戦争中にずれ込んだことで、同型船すべてが同じ時期に民間船として活躍することはなかった。
太平洋戦争開戦後は全船が日本海軍の特設運送艦、特設運送船(給油)および海軍徴傭船のいずれかとなり、戦禍により一旦は全て姿を消した。「極東丸」のみは戦争終結後に引き揚げられ、日本油槽船の「かりほるにあ丸」として再生し、1964年(昭和39年)まで活動した。
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川崎型以外の1万トン級タンカー
この節では、川崎型油槽船と同時期の建造された1万トン級タンカーについて解説する。下表の「備考」欄の○印は船舶改善助成施設適用船を示し、●印は優秀船舶建造助成施設適用船を示す。
特徴・就役
船体の特徴としては「川崎型油槽船と実質同じで、「姉妹船」」という見方がある[33]。船舶改善助成施設や優秀船舶建造助成施設の適用、「富士山丸」以来の2条の縦通隔壁を渡して強度を持たせた点については共通しているが[34][35]、川崎建造分や戦時標準船とは異なり、建造された造船所ごとにスペックなどが異なったりしている。なかでも、「日章丸」は船体の至るところに「流線形」を取り入れ、「日本油槽船の史上に残る名船」とうたわれた[32]。また「黒潮丸」は、ディーゼル機関を搭載した他のタンカーと違ってタービン機関を搭載し、太平洋戦争中に建造された戦時標準船中の1TL型、2TL型といったタンカーが若干の例外を除いてタービン機関を搭載したため[注釈 5]、そのプロトタイプとも言うべき存在となった[36][注釈 6]。ディーゼル機関搭載船も、それぞれ建造造船所やその関連会社が製作した機関を搭載している。「音羽山丸」と「御室山丸」には流動面積減少装置が取り付けられ[37]、また本項で紹介するタンカーの中では一番小ぶりの部類に入る。
川崎型油槽船と同じよう平時は商業航海に従事し、太平洋戦争では「音羽山丸」のみは日本陸軍の指揮下で運航され[37]、他は日本海軍に徴傭されて行動した。この節で紹介したタンカーも全て一度は戦没し、「黒潮丸」だけが戦後に中華民国政府により浮揚されて「永灝」と改名[38]、後にイギリス政府に接収されて給油艦「サーフ・パイロット」となっている[39]。
行動略歴
要約
視点
「川崎型油槽船」および「川崎型以外の1万トン級タンカー」双方すべてを掲載している。
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要目一覧
要約
視点
「川崎型油槽船」および「川崎型以外の1万トン級タンカー」双方すべてを掲載している。
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ギャラリー
- 「東亜丸」
- 「極東丸/旭東丸」
- 平時の「日本丸」
- 「建川丸」
- 「厳島丸」
- 「東邦丸」
- 平時の「神国丸」
- 「東栄丸」(1941年2月)
- 「神国丸」(1941年9月)
- 「日本丸」(1943年6月)
脚注
参考文献
関連項目
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