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巨勢堺麻呂

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巨勢 堺麻呂(こせ の さかいまろ/せきまろ)は、奈良時代公卿。名は関麻呂とも記される。左大臣巨勢徳多の曾孫。従五位上巨勢小邑治の子。伯父の中納言巨勢邑治の養子。官位従三位参議

概要 凡例巨勢 堺麻呂, 時代 ...

経歴

天平14年(742年内位従五位下に叙せられる。早くも翌天平15年(743年)従五位上に昇叙されると、天平19年(747年正五位下、天平20年(748年)正五位上と聖武朝末にかけて急速に昇進を果たす。またこの間、式部少輔・大輔を歴任している。

天平勝宝元年(749年)7月の孝謙天皇の即位に伴って従四位下に昇叙され、同年8月に皇后宮職紫微中台に改められると紫微少弼を兼ねる。その後暫く昇進が止まるが、天平勝宝9歳(757年)6月に発生した橘奈良麻呂の乱において、薬の処方を受けるために答本忠節の邸宅を訪ねた際に、大伴古麻呂小野東人が反乱を計画していること、この計画を知った忠節が右大臣藤原豊成に報告を行っているとの情報を得て、これを孝謙天皇に密かに上奏する[1]。この功労により7月に入って三階昇進して従三位兼左大弁に叙任され、8月には参議に任ぜられ公卿に列した。

天平宝字2年(758年淳仁天皇即位後まもなく官職名の唐風改易が行われたが、大保藤原恵美押勝らとともに改易のを奉じた公卿に名を連ねている[2]。その後、病気のため出仕できなくなり、期限の到来により参議を解任された[3]天平宝字5年(761年)4月9日薨去。最終官位散位従三位。

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官歴

さらに見る 和暦, 西暦 ...
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系譜

脚注

参考文献

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