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広田修三
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広田 修三(ひろた しゅうぞう、1914年8月28日 - 没年不明)は広島県出身の元プロ野球選手。名古屋金鯱軍創設時の捕手[1]。
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来歴・人物
松本商業(現:広島県瀬戸内高等学校)で上田正とチームメイト。入社した広島専売局(現・JT広島支局)で濃人渉らと同期となる。1936年名古屋金鯱軍創設に参加[1]。同年2月9日、東京巨人軍との日本初のプロ球団同士の試合(現在のプロ野球組織に属する球団同士の初試合)に四番先発出場した。しかしそれ以外は出場のチャンスが少なく自ら移籍を希望、同年の内に石本秀一監督の勧めで大阪タイガースに移籍。広島県人つながりで、タイガースの移籍入団第1号であった[2]。当初阪急軍が交渉を持ったため、阪急だけには渡したくない、と金鯱軍と交換条件などで揉めた。前年正捕手であった小川年安が軍に召集されたため、小川に代わる選手として期待されたが門前眞佐人や田中義雄らが正捕手であった。1940年にはライオン軍に移籍。1942年には105試合に出場し1944年オフに退団した。
非常に肩の強い選手であったが、打撃が課題でスタメンを得ることができなかった。
戦後の1946年、平桝敏男や倉本信護、田部輝男、濃人渉、門前眞佐人、道仏訓、岩本信一、橋本正吾らと広島駅前で映画館やパチンコ屋、キャバレーなどを経営していた広島鯉城園のノンプロチームに参加。この年の夏、戦後初の都市対抗野球大会に出場(倉本と田部は直前に東京カッブスに参加したため不出場)。初戦で優勝した大日本土木に延長戦で惨敗した。
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詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- ライオン(ライオン軍)は、1941年に朝日(朝日軍)に球団名を変更
背番号
- 5 (1936年)
- 7 (1937年 - 1939年)
- 3 (1940年 - 1943年)
- 1944年は背番号制廃止
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参考文献
脚注
関連項目
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