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弘田憲二

日本のヤクザ ウィキペディアから

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弘田憲二(ひろた けんじ、不明 - 2002年平成14年〉4月20日)は、日本ヤクザ。かつて存在した暴力団弘田組」の組長。高知県高知市出身。

生涯

要約
視点

1970年昭和45年)、中井組内岡林組に加入。

1978年(昭和53年)、弘田組を結成し、中井組の直系となる。その後、中井組若頭に昇格。山一抗争後の1992年平成4年)頃、五代目山口組中野会に加入。その後、中野会副会長に就任。

1996年(平成8年)7月10日京都府八幡市理髪店で、散髪中だった山口組若頭補佐・中野会会長・中野太郎が、会津小鉄系組員に銃撃された。中野太郎のボディガードが拳銃で応戦し、会津小鉄系組員2人を射殺。中野太郎は無傷であった(中野会会長襲撃事件)。同日、四代目会津小鉄若頭・図越利次ら最高幹部が山口組総本部を訪れ、中野太郎を襲撃したことを詫び、山口組若頭・宅見勝は事態拡大を防ぐため、中野太郎に一切の事前報告なく会津小鉄側の謝罪を受け入れ迅速に和解した。当事者である中野太郎の意向を確認をせずに、宅見勝が和解したことに中野太郎が激高し、激しい不満を抱いた。

1997年(平成9年)8月28日15時20分ごろ、新神戸オリエンタルシティのティーラウンジで、宅見勝・岸本才三野上哲男の3人がテーブルに着いた直後、中野会の襲撃部隊が38口径と45口径の拳銃で宅見勝を銃撃。宅見勝は7発の銃弾を受け、神戸市立中央病院に緊急搬送されたが、約1時間後の午後4時32分に銃撃による失血により死亡した(宅見若頭射殺事件)。同月31日、宅見勝の告別式が行われ、五代目山口組組長・渡辺芳則は中野太郎を破門処分とした。同年9月3日、宅見若頭射殺事件で流れ弾に当たった男性歯科医師が死亡したため、渡辺芳則は中野太郎を破門からの絶縁処分とした。中野太郎は事件への関与を認めず、絶縁に納得できないとして、中野会は解散せず独立組織となった。

1999年(平成11年)7月1日大阪府公安委員会が独立組織として中野会を指定暴力団に指定。

2002年(平成14年)4月20日、宅見若頭射殺事件の報復をしようと、旅行中の弘田憲二を本州から単独で追い続けていた五代目山口組・天野組・東浜一家組員・山下哲生が、沖縄県那覇市山下町国道331号で、オートバイに乗ったまま、弘田の乗った知人女性が運転する車に向けてブラジル製38口径拳銃を1発発射し、弘田は胸部に被弾した。弘田の車を運転していた知人女性は、オートバイを振り切ろうと他の車に接触しながらも逃げようとしたが、那覇市繁華街の路地で追いつかれて4発発砲され、弘田は胸や腹などに2発被弾し病院に搬送された。同日午後3時25分、弘田は内臓損傷などによる失血により死亡した。銃弾1発は弘田憲二の体を貫通し、2発は体内から摘出された。

同月23日、高知市内で弘田憲二の通夜が営まれたが、中野太郎は通夜に出席しなかった。翌24日、告別式が営まれ、約400人が参列した。

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