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張孝栘
中華民国の司法官、法学者 ウィキペディアから
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張 孝栘[注 1](ちょう こうい、1881年 - 没年不詳)は中華民国の司法官・法学者。字は棣生。別号は逖省。
経歴
日本に留学し、1906年(光緒32年・明治39年)に早稲田大学専門部政治経済科を卒業した[3]。帰国後は京師法政学堂及び京師法律学堂の教習(教官)となる。以後、修訂法律館纂修、憲法編査館科員、北京政府大理院推事を歴任した。1915年(民国4年)、総検察庁首席検察官に任命される。1928年(民国17年)4月、総検察庁検察長暫定代理となった。その後、国立北平大学法学院教授、国立北京大学法律系講師、河北省立法商学院法律系教授を歴任している[1]。
1937年(民国26年)12月、北京に中華民国臨時政府が成立すると、張孝栘もこれに参与する。翌1938年(民国27年)2月19日、最高法院(院長:董康)検察署検察長に任命された[2][4]。
1940年(民国29年)3月30日、南京国民政府(汪兆銘政権)に臨時政府が合流し、華北政務委員会に改組される。臨時政府最高法院も汪兆銘政権の最高法院華北分院へ改組され[注 2]、同年5月28日に張孝栘が分院院長として任命された[5]。以後、1945年(民国34年)8月の汪兆銘政権崩壊までその地位にあった[6]。その後の消息は不明である。
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脚注
参考文献
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