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後鳥羽院宮内卿
日本の鎌倉時代の歌人 ウィキペディアから
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宮内卿(くないきょう)または後鳥羽院宮内卿(ごとばのいんくないきょう、生没年不詳)は、鎌倉時代初期の女流歌人。新三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。父は右京権大夫源師光(大納言師頼の子)、母は後白河院の女房安芸と言われる。兄に源泰光、源具親がいる。

経歴
生涯については、はっきりしたことがほとんどわからない。その歌才によって後鳥羽院の召しにあい院のもとに女房として出仕、1200年(正治2年)から1204年(元久元年)までの短期間に、後鳥羽院歌壇で活躍し、『新古今和歌集』以降の勅撰集、歌合等に多数の作品を残している。以降の消息は不明で、『無名抄』や『正徹物語』の記述から、二十歳前後で夭折したとする説が一般的。
逸話
- 若手女流歌人として、俊成卿女と宮内卿が並び称される存在だった。宮内卿は、歌合のような晴の席の前には、草子や巻物をとり広げ、灯りをともして夜も昼もなく予習に励んだ。和歌に熱中しすぎて体をこわし、父から「なにごとも命あってのこと」と諌められたが、それでも言うことを聞かず、ついに若くして命を落とした[1]。二十歳前だったという[2]。「宮内卿は血を吐きしといへり[3]」。
- 母である安芸は琴の名手、安芸の父は絵師巨勢宗成で、これらが宮内卿の絵画的で印象鮮明な作風に影響しているという見方がある[4]。
- 千五百番歌合に際し、並み居る大家ベテランの中に混じって、宮内卿はまだ実績はないが期待していると、後鳥羽院から特に名前を挙げて激励され、
面うち赤めて 涙ぐみて候ひけるけしき 限りなき好きの程も あはれにぞ見えける
— 『増鏡』 第一 おどろの下
さてその御百首の歌 いづれもとりどりなる中に
薄く濃き野辺のみどりの若草に 跡まで見ゆる雪の村消え
草の緑の濃き薄き色にて 去年のふる雪の遅く疾く消ける程を おしはかりたる心ばへなど
まだしからん人は いと思ひ寄り難くや
- と期待に違わず評価を得た。宮内卿はこの歌で「若草の宮内卿」の異名をとった。『増鏡』の作者は、もし彼女がもっと長く生きたなら、どれだけ目に見えぬ鬼神をも動かしたことだろうと、その才能を惜しんでいる[5]。
関路花を
— 『新古今和歌集』 巻第二 春歌下
あふ坂や木すゑの花を吹からに 嵐そかすむ関のすきむら
- この「あらしぞ霞む」は「主ある詞[* 2]」とされ、宮内卿の名声を高める一助となった。
百四十八番
— 『時代不同歌合』
左 泉式部
くらきよりくらき道にそ入ぬへき はるかに照せ山のはの月
右 宮内卿
色かへぬ竹のはしろく月さえて つもらぬ雪をはらふ秋風
百四十九番
左
もろともに苔の下にはくちすして 埋もれぬるをみるそ悲しき
右
霜をまつまかきの菊の宵のまに 置まよふ色や山のはの月
百五十番
左
物思へはさはの蛍も我身より あくかれ出る玉かとそみる
右
からにしき秋のかたみや瀧田山[* 4] ちりあへぬ枝に嵐ふく也
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作品
- 私撰集等
- 三百六十番歌合(1200年(正治2年))
- 「宮内卿 院女房」名で9首
- 家集は伝存しない。
脚注
参考文献
関連項目
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