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徳川徳松

江戸時代の藩主、徳川綱吉の長男 (1679-1683) ウィキペディアから

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徳川 徳松(とくがわ とくまつ)は、江戸時代前期の大名上野館林藩主。徳川綱吉の長男で、綱吉の江戸幕府第5代将軍就任に伴って将軍家世子となるが、夭折した。

概要 凡例徳川 徳松, 時代 ...

略歴

延宝7年5月6日(1679年6月14日)、当時館林藩主だった綱吉の嫡男として江戸の神田御殿で生まれた。母は堀田将監(小谷正元)女のお伝の方(瑞春院)。同母姉に紀州藩徳川綱教室となった鶴姫がいる。なお、「徳松」は父の綱吉も名乗っていた幼名である。

延宝8年(1680年)5月に綱吉が長兄の4代将軍家綱の継嗣となったため、数え二つ(満11か月)で館林徳川家の家督を継いだ。同年11月27日に、江戸幕府第5代将軍になった綱吉と共に神田御殿から江戸城西の丸に移り、館林藩主のまま綱吉の世子に定められ[2]松平忠冬堀田正英内藤重頼黒田直邦岡田俊陳稲垣重定本庄宗資堀田正休川勝隆尚らの旗本御家人が傅役として徳松に仕え、老中板倉重種も徳松付の西の丸老中を兼ねてこれを支えた。

しかし、徳松は天和3年閏5月28日(1683年7月22日)に数え五つ(満4歳)で夭折した。法名は浄徳院殿霊岳崇心大童子。墓所は東京都港区増上寺にある。徳松の没後、館林藩は廃藩となり、藩領は幕府直轄領に編入されて館林城も破却され[2]、館林徳川家は2代で廃絶した。

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出典

参考文献

関連項目

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