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内藤重頼

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内藤 重頼(ないとう しげより)は、江戸時代初期の旗本、のち大名高遠藩内藤氏第5代(第6代とする説あり)。

概要 凡例内藤 重頼, 時代 ...

生涯

生い立ちと初期の経歴

寛永5年(1628年)、安房勝山藩第2代藩主・内藤正勝の長男として誕生する。寛永6年(1629年)に正勝が死去すると、重頼は幼少のため、遺領2万石のうち5000石のみを相続した。減封にともない内藤家は大名から旗本となり、安房勝山藩は廃藩となった。

万治3年(1660年)の定火消を皮切りに、書院番頭大番頭御側衆を歴任した。寛文2年(1662年)には従五位下若狭守に叙任した。延宝4年(1676年)、所領を安房国長狭郡から下野国内に移封される。

内藤家中興の祖

延宝8年(1680年)、徳川綱吉の長男徳松の傅役に就任し、上総国常陸国・下野国内で3000石を加増され、合わせて8000石を領した。徳松死後の貞享元年(1684年)、若年寄となり常陸国内で5000石を加増、合計1万3000石となり内藤家は大名に復帰する。翌貞享2年には大坂城代に転じ、摂津国河内国内で2万石を与えられ3万3000石となる[1]。貞享4年(1687年)には京都所司代を命ぜられ、従四位下侍従に叙任した。

元禄3年(1690年)11月27日、63歳で死去した。男子がなかったため、正勝の妹の子で天和元年(1681年)に養子としていた甥の清枚(旗本水野守政の次男)に跡を継がせた。清枚は元禄4年(1691年)に信濃高遠藩へ移封され、以後高遠藩内藤氏は明治維新まで約180年間存続した。

重頼は寛文8年(1668年)、父・正勝の葬儀を行った僧・太宗に寺地を寄進し、江戸に太宗寺を創建している。重頼自身は京都の金戒光明寺に埋葬されたが、その後も太宗寺は高遠藩内藤氏の菩提寺となった。

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脚注

参考文献

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