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徳野大空

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徳野大空
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徳野 大空(とくの たいくう、1914年大正3年〉3月9日[1][2] - 1974年昭和49年〉6月12日[2])は、群馬県安中市出身の書家。本名は徳野 輝雄(とくの てるお)[2][3]。現代書芸、およびの研究で知られる。

概要 徳野(とくの) 大空(たいくう), 生誕 ...

経歴

要約
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1914年大正3年)、群馬県碓氷郡後閑村下後閑(現・安中市下後閑[1])に生まれる[4][3]1931年昭和6年)半田神来に師事[1][2]1933年(昭和8年)群馬県師範学校を卒業[1][2][3]。同年より碓氷郡秋間小学校に勤務[1][2]

1935年(昭和10年)に比田井天来の門に入り[4][1][2][3]、天来の下で多様な古典を学習した。1937年(昭和12年)上京[4][2]、翌1938年(昭和13年)より世田谷区玉川小学校に勤務する[1][2][3]1940年(昭和15年)手島右卿に師事[1][2]。同年の大日本書道院展にて最高賞を受賞した[1][2]。同年玉川小学校を退職する[1][2]。その後、1943年(昭和18年)に日満支三国展にて最高総理大臣賞を受賞[4][1][2][3]

戦後の1947年(昭和22年)、日本書道美術院展審査員[4][1][2][3]1949年(昭和24年)日展特選[4][1][2]1951年(昭和26年)、毎日書道展審査員[4][1][2][3]1952年(昭和27年)独立書道会の結成に参加し副会長となる[4][1][2][3]1953年(昭和28年)にも日展特選[4][1][2]1954年(昭和29年)日展委嘱[4][1][2]

1958年(昭和33年)、羊毛筆の研究に着手し、「玉品」「牛歩」「玄潮筆」を創作する[2]。同年日展審査員[4][1][3]。同年月刊書道誌『火山』を発行[4][1][2][3]1959年(昭和34年)日展会員[4][1][2]1961年(昭和36年)に墨の研究に取り組み、各種金粉入り青墨を製作[2]1963年(昭和38年)には東京タイムズ社主催・現代書家30人展に出品[1][2][3]

1965年(昭和40年)にも日展審査員[4][1][2]。同年第二次訪中文化使節に参加し中国を訪れる[4][1][2]。昭和41年(1966年)には日展評議員も務める[4][1][2][3]。同年東京タイムズ書道展運営委員、審査員長[4][1][2][3]

1967年(昭和42年)4月に玄潮会を結成し代表となる[4][1][2][3]1968年(昭和43年)上武大学講師[4][2][3]1969年(昭和44年)古典研究のため台湾に渡る[4][1][2][3]1970年(昭和45年)に日本万国博覧会に出品[4][1][2][3]

ほかに、秋田県男鹿市主催夏季大学講師[2]、群馬県教育委員会主催書道講習会講師[2]福井県書道講習会講師[2]福岡県書道講習会講師[2]栃木県書道講習会講師[2]などを務め全国各地にその功績を残す。

晩年の1973年(昭和48年)に東京タイムズ社主催の「日曜書道教室」の一字作品の講座を担当する[1][2]。同年12月現代書作家対話集に収録される[2]

1974年(昭和49年)、脳塞栓症により死去[4][1][2]。60歳。法号は大徳院殿證空毫輝居士[2]

神奈川県鎌倉霊園に埋葬され[1][2]、群馬県安中市北野寺に分骨されている[2]

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出展作品

  • 寒江(1950年、第6回日展)
  • 愛(1951年、第7回日展)
  • 芸(1961年、日展) - 東京新聞に写真が掲載され、美術評論家から高く評価された[2]
  • 鳳(1968年、第17回奎星展)

その他多数出展

著書

  • 小学校習字教科書『私たちの習字』上・中・下 昭和28年発行
  • 書典 一・二・三 昭和29年編集発行
  • 新書典 昭和29年編集発行
  • 書典基本用 昭和29年編集発行
  • 月刊書道誌「火山」 昭和33年
  • 月刊書道誌「現代書芸」「あすなろ」 昭和41年
  • 月刊書道誌「玄潮」「火山」(改称発行) 昭和46年 

出典

参考文献

関連文献

関連項目

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