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慶滋為政

平安時代の貴族 ウィキペディアから

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慶滋 為政(よししげ の ためまさ、生没年不詳)は、平安時代中期の貴族・文人。善滋とも記される。加賀守賀茂忠行の孫で、能登守慶滋保章の子。官位従四位上文章博士善博士とも呼ばれた。

経歴

一条朝前期の長徳4年(998年文章生であったが、方略試に及第して権少外記に任官する。長保5年(1003年巡爵により従五位下叙爵し、まもなく外記を去ったか。

式部少輔を経て、一条朝末の寛弘8年(1011年)3月に大内記を兼ねるが、同年6月の三条天皇践祚を経て、同年10月に河内守として地方官に転じた。その後、三条朝にて従四位下内蔵権頭に叙任される。

長和5年(1016年後一条朝大嘗会では主基方屏風歌を詠む[1]寛仁2年(1018年文章博士に任ぜられると10年以上に亘ってこれを務め、民部権大輔・河内守も兼ねた。また、治安[2]万寿[3]長元[4]の三度に亘って、勘申した元号が採用されている。

右大臣藤原実資の家司も務めた。

人物

和漢に優れ、寛仁2年(1018年)の小一条院大堰川遊覧では真名序を[5]万寿元年(1024年)の後一条天皇高陽院行幸の後宴では仮名序を作成した[6]。勅撰歌人として『拾遺和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に4首の和歌作品が採録されている[7]

官歴

系譜

脚注

参考文献

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