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長徳
日本の元号 ウィキペディアから
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改元
出典
揚雄の『城門校尉箴』の「唐虞長徳、而四海永懐」より。
長徳期におきた出来事
王朝政治史上大きな変動があった時期。改元前後に全国を席巻した疫病が起き、ついで中関白藤原道隆の薨去とそれに伴う政争があり、程なくして内大臣藤原伊周・中納言藤原隆家兄弟といった公卿が政変(年号に因み「長徳の変」と称される)によって流されるといった騒動があった。
- 長徳元年(995年)
- 長徳2年(996年)
- 長徳3年(997年)
- 3月25日、藤原詮子の病臥に伴い、恩赦(重大犯罪を含む全ての犯罪者)を行う[1]。
- 6月5日、河内国若江郡(大阪府八尾市・東大阪市)にて、豪族の美努氏の1人で、前淡路掾(さきのあわじのじょう)だった美務兼倫(みぬのかねとも)の家宅に、同族で太皇太后昌子内親王の太皇太后宮職の史生だった[4]美努真遠(みぬのさねとお)の指示の元、前遠江介(さきのとおとうみのすけ)だった美務公忠(みぬのきみただ)を首魁とする武装集団が夜討ちをかけて殺害を目論むも、「若江郡使」であった源訪(みなもとのたずぬ)など郎等たちの加勢もあって未遂に終わる。後日、兼倫は都の検非違使に訴え出て、告発状は『前淡路掾美努兼倫解(さきのあわじのじょうみぬのかねともげ)』として『三条家本北山抄裏文書』に現存している[5]。
- 長徳4年(998年)
西暦との対照表
※は小の月を示す。
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脚注
関連項目
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