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長徳

日本の元号 ウィキペディアから

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長徳ちょうとく旧字体長德は、日本元号の一つ。正暦の後、長保の前。995年から999年までの期間を指す。この時代の天皇一条天皇

改元

出典

揚雄の『城門校尉箴』の「唐虞長徳、而四海永懐」より。

長徳期におきた出来事

王朝政治史上大きな変動があった時期。改元前後に全国を席巻した疫病が起き、ついで中関白藤原道隆の薨去とそれに伴う政争があり、程なくして内大臣藤原伊周中納言藤原隆家兄弟といった公卿が政変(年号に因み「長徳の変」と称される)によって流されるといった騒動があった。

  • 長徳元年(995年)
    • 2月22日、改元に付随して恩赦(重大犯罪者を除く)を行う[1]
    • 9月、若狭に来着した宋人を越後に移す。
  • 長徳2年(996年
    • 3月28日、一条天皇の母、東三条院藤原詮子の病臥に伴い、恩赦(重大犯罪者を除く)を行う[1]
    • 6月14日、右近衛大将だった大納言藤原顕光の邸宅に群盗が押し入り、在宅中だった橘内成(たちばなのうちなり)の息子が負傷する[2]
    • 11月、播磨掾摂津守だった郎等高向国明の私邸が捜索を受け、財産が差し押さえられる[3]
  • 長徳3年(997年
    • 3月25日、藤原詮子の病臥に伴い、恩赦(重大犯罪を含む全ての犯罪者)を行う[1]
    • 6月5日、河内国若江郡大阪府八尾市東大阪市)にて、豪族の美努氏の1人で、前淡路掾(さきのあわじのじょう)だった美務兼倫(みぬのかねとも)の家宅に、同族で太皇太后昌子内親王の太皇太后宮職の史生だった[4]美努真遠(みぬのさねとお)の指示の元、前遠江介(さきのとおとうみのすけ)だった美務公忠(みぬのきみただ)を首魁とする武装集団が夜討ちをかけて殺害を目論むも、「若江郡使」であった源訪(みなもとのたずぬ)など郎等たちの加勢もあって未遂に終わる。後日、兼倫は都の検非違使に訴え出て、告発状は『前淡路掾美努兼倫解(さきのあわじのじょうみぬのかねともげ)』として『三条家本北山抄裏文書』に現存している[5]
  • 長徳4年(998年
    • 2月2日、備前国から難波津大阪湾)の淀川河口に向かっていた260石積みの運搬船(備前国鹿田荘の別当渋川辛運の所有)が摂津国武庫郡の港で強風による高波で沈みかけるが、運搬船を『寄り物』と判断した現地の豪族『秦押領使』が、乗員だった秦米茂の手引きで一方的な略奪を行い、美作国の荘園から奈良の秋篠寺に運ぶ予定だった積荷の米180石と塩20籠、そして船体も解体されて持ち去られ、梶取(船長)の佐伯吉永も殺害未遂に遭う事件が発生する[6]

西暦との対照表

※は小の月を示す。

さらに見る 長徳元年(乙未), 一月※ ...
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脚注

関連項目

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