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成形図説
薩摩藩で編纂された農書 ウィキペディアから
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『成形図説』(せいけいずせつ、旧字体: 成形圖說)は、江戸時代後期の薩摩藩主島津重豪が、臣下の曽槃・白尾国柱らに編纂させた、イラスト付き百科事典のような農書。江戸時代を代表する農書の一つ[3]。文化元年(1804年)初版[4]。未完作品。


成立経緯
島津重豪が、明和安永年間(1764年 - 1781年)藩臣に編纂を命じ[5]、寛政4年(1792年)から曽槃が参加、同11年(1799年)から白尾国柱が参加した[6]。重豪は他にも多くの編纂事業を命じていた[3]。重豪の目的は、本書を藩内で印刷・頒布し、農業や医学を振興させること、および民の必要物を統治者にわきまえさせることにあった[5]。
当初の計画では、単なる農書でなく、全100巻の百科事典的な書物になるはずだった[5]。しかし文化3年(1806年)、編纂所を兼ねる江戸・芝の藩邸が火事の延焼にあい、版木は焼失を免れたものの事業が停滞[5]。これに藩の財政難や政争も重なり[4]、30巻までが完成した状態で事業が解体となる[5]。その後も曽槃だけが江戸で編纂を続けたが、文政12年(1829年)、再度の火事で31巻から40巻の版木と原稿が焼失[5]。天保2年(1831年)、曽槃は自分の最期が近いながらも未完であることを嘆き[7][5]、その3年後に没した。
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内容・伝本
農書的な30巻までが刊行され[4]、複数の刊本が伝わる[8]。構成は、1から14巻が農事全般を扱う「農事部」、15から20巻が穀物を扱う「五穀部」、21から30巻が野菜を扱う「菜蔬部」となっている。版木は、初版の文化元年(1804年)から明治元年まで同一のものが使われたが、その後の行方は知れない[9]。
また、未刊の31から45巻が、写本の形で断片的に伝わる[5]。静嘉堂文庫蔵写本には「菌部」「薬草部」「草部」「木部」「果部」、東京国立博物館蔵写本には「鳥部」にあたる内容が含まれている[5]。この「鳥部」は1932年に土屋喬雄が発見した[6]。伝来経緯としては、鳥飼い趣味を嗜む重豪が、曽槃の遺稿の写しを藩臣(穂積実と内野儀[6])に作らせ私蔵したものと推定される[10]。
項目は基本的に和文で書かれており、和漢の古典籍や『東雅』『庶物類纂』などを用いての考証や解説のほか、和名・漢名・オランダ名の対照、そしてイラスト(図譜)を多く含んでいる。
イラストは、一般的な刊本では墨刷り白黒だが、一部の特装本は多色刷りでカラフルになっている[5]。これは将軍家や有力大名家への贈呈用だったと推定される[3][4]。ライデン大学には桂川甫賢がシーボルトに贈った彩色本が収蔵されている[1]。上記2つの写本にも彩色が施されている[5]。

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主な制作者
関連項目
脚注
参考文献
外部リンク
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