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成都武侯祠
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成都武侯祠(せいとぶこうし)は、中華人民共和国四川省成都市武侯区にある、三国時代の蜀の丞相・諸葛亮と、その主君・劉備と功臣を一体に祀る国内唯一の祠堂[1][2][3]。
諸葛亮を祀った「武侯祠」と呼ばれる祠堂は中国各地にあるが、その中でも有名なもののひとつである[注 1]。劉備の墓である「恵陵」とその側に建てられた劉備廟(漢昭烈廟)に、明代に「武侯祠」を組み込み、清代の再建時に現在の君臣合祀の形に整備された[3]。
中国西南地域最大の平野に位置し、古くから戦略の要衝として栄えてきた成都の地に立つ。この地は劉備が蜀漢(季漢)を建国し、都を定めた場所でもある[7][8]。
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歴史と沿革
要約
視点
三国・成漢時代の廟
惠陵と劉備の廟
→詳細は「劉備 § 陵墓」を参照

章武3年(223年)4月、蜀漢の初代皇帝・劉備は永安宮で病死し、同年8月、諸葛亮によって成都南郊の『恵陵』に葬られた[7][11][12][注 2]。漢代の慣習に従い、恵陵の隣に劉備を祀る「先帝廟」、別名「恵陵廟」が建立されたと考えられる[14][15][12][16]。
南朝斉(479年)の時代になると、高帝・蕭道成が「益州に天子の鹵簿(儀仗:護衛兵・権威旗・儀式道具)が現れる夢を見た」ことを理由に拡張され、記念的祠廟として形を整えた[17][18][12]。
北宋の慶暦年間(1041年~1048年)初めには、益州を治めた枢密直学士の蒋堂が銅壺閣を建てた際、木材不足のため恵陵の陵園の柏の木を伐採し、当時、昭烈(劉備の諡号)[7][19]廟東の脇室で「附祭」として祀られていた劉備の子、第二代皇帝・劉禅の祠を「(劉禅は魏に降伏して)国を保つことができず、国を売って栄華を求めた」という理由から、「破壊した」とある[20][12][16][21][注 3]。
ふたつの孔明廟
→詳細は「諸葛亮 § 死後」を参照

三国時代の建興12年(234年)、諸葛亮が死去し、29年後、劉禅は群臣の進言を受け、景耀6年(263年)春、沔陽(現在の陝西省勉県)に廟の建立を命じた[23][24][25][26][27]。これは三国時代の劉備の陵廟と諸葛亮の廟がそれぞれ離れた場所で祀られていたことを示している[28]。
諸葛亮の廟はこの沔陽の廟のほか、別の廟があったことが南宋の祝穆が著した『方輿勝覧』に記されている。以下は、該当部分。
これらの記述から、この『孔明廟』が建立されたのは西晋末から東晋初めにかけての時期であり、この廟も現在の恵陵そばに建つ武侯祠とは異なる場所に存在していた[29][30][31][32][28](画像地図参照)。
唐代:武侯祠の興隆
南北朝の武侯祠
現在の武侯祠が劉備廟に付随して建てられたのは、約5世紀頃(420年~589年)の南北朝時代と推測される[28][30][3][33][注 4]。武侯祠の「武侯」とは「忠武侯」と諡号された諸葛亮を指し[36]、彼を祀る霊廟を意味する[37][38]。少城内の孔明廟を移転したものなのか、新しく建てられたものなのかは分かっていない[39]。
一大名勝の地へ

唐代に入ると、武侯祠は南郊の一大名勝として文人墨客が集う場所となり[40][30][41]、唐の詩人である杜甫や李商隠は、この地の武侯祠や劉備廟について詩を残しており、両者が隣接しながらも独立した存在だったことが示唆される[42][43][30][28][注 5]。
元和2年(807年)に剣南西川節度使の武元衡が諸葛亮を拝謁後に建立を命じた「蜀丞相諸葛武侯祠堂碑」、通称「三絶碑」が建てられる[45][46]。この碑は裴度が撰文[47]、柳公綽が書丹、魯健が刻み[48][49]、諸葛亮の功績・裴度の文章・柳公綽の書法の三つが絶妙に調和していることから「三絶碑」と呼ばれ、現在も武侯祠に残り、当時の武侯祠の重要性を示している[50][51][52]。
宋、元代を通じては、武侯祠の具体的な位置に大きな変化はないが、これらの時代も、諸葛亮を祀る場所として多くの人々に崇敬され、修復が繰り返されてきたことが記録に残されている[53][54][52]。
明代:配置の大転換
大きな動きがあったのは明朝初期の頃である。蜀献王・朱椿は、劉備廟よりも武侯祠の香火が盛んなことに不快感を覚え、「武侯祠が恵陵と劉備廟に近すぎるのは礼制に合わない」「君臣は一体であるべき」という理由を掲げ、武侯祠の廃止を命じた[55][54][56][注 6]。その上で、「劉備殿」の東西に廊下を増築し、東の廊に諸葛亮を、西の廊に関羽・張飛を合祀した[59][60][61]。これは劉備を主とする配置への回帰を意図したものだったが、皮肉にも「劉備が諸葛亮の廟に入った」という印象を与え、後世の認識に影響を与えた[62][60][61][39]。
清代:大規模な再建
文臣武将を祀る

明末の度重なる戦乱で武侯祠は破壊されてしまうが[3]、清の康熙10年から11年(1671年~1672年)に按察使の宋可法らの主導で再建される[60][61]。
この時、君臣の礼制を考慮し、「劉備殿」が前、「諸葛亮殿」が後に配置される「一祠二殿」という君臣合祀の形が確立され、「劉備殿」の両廊の「両廡」(りょうぶ:現在の文臣武将廊)には蜀の功臣である文官・武官が祀られることになり[63][64][3]、現在見られる規模となった[65]。なお、宋可法は再建の碑文で「武侯祠」と称し、「劉備廟」という呼称を避けている[66][67][60]。
康熙34年(1695年)、四川巡撫の于養志は、自身の「諸葛忠武侯祠堂碑記」に祠廟の桁や梁、柱が弱って支えきれなくなったもの、瓦や煉瓦、塀が崩れて支えを失ったものを、「諸大夫とともに先頭に立ち、すべて取り換えて新しくした」と修繕記録を残している。この碑も武侯祠に現存する[68][64]。
乾隆21年(1756年)には、四川布政使の周琬が劉備廟と武侯祠の経緯を考証し、劉備廟の名を復活させようと「漢昭烈廟」の扁額を掲げたが、しかし、民衆は依然として「武侯」と呼び続け、その試みは実らなかったという[14][69][70]。
清代最後の修繕は道光15年(1835年)、四川総督の鄂山主宰のもと行われた。同年5月2日に工事を開始し、8月26日に終了するまで、約3ヶ月強の期間を要している[64]。
塑像の配置換え

道光年間のいずれかの頃(1821年~1830年)、塑像の配置が見直された[71][72][73]。清代で最も重要な見直しは、道光29年(1849年)[74][75]、清代の四川で最も著名な学者の一人である劉沅主宰のもと行われた[64][76]。
劉沅自身の定めた「純臣」の基準に基づき、「両廡」に置かれていた法正・許靖・劉巴の像を撤去[77]、さらに、それぞれの像の前に、人物の事績を簡潔に説明する石碑を追加した[78][74][76]。これら碑文は、陳寿の正史『三国志』の記述を基に要約されており、現在も塑像と共に展示されている[64](塑像の配置の変遷、撤去理由などの詳細は、→#文臣武将廊)。
民国時代の修繕

民国11年(1922年)、川軍臨時総司令官であった劉成勲が、成都の長老たちの勧めを受け、資金を募って祠廟の修繕を行った。具体的な修繕状況は、現在も祠内に残る尹昌齢の「重修諸葛忠武侯祠記」碑に記されている[80][64]。劉成勲は劉備の末裔であると自称し、修繕完了後、劉沅が付け替えた大廟の正門の扁額「漢昭烈帝廟」に、「献 漢昭烈帝廟 四十八代裔孫 劉成勲」と自身の題跋を追加している[64]。
中国:危急存亡の秋
→詳細は「文化大革命」を参照

中華人民共和国が成立した1949年以降、武侯祠は一般公開され観光名所となり、1961年「成都武侯祠博物院」に認定、中華人民共和国全国重点文物保護単位に指定される[81][70]。
しかし、1966年に文化大革命が起こると閉鎖を余儀なくされる。紅衛兵たちは「破四旧」(はしきゅう:旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣を破壊せよ)のため武侯祠へ突入したが、1955年に武侯祠を訪れ、諸葛亮を敬愛していた周恩来が[82]、「誰であれ武侯祠を破壊しようとするものは、その首を取る」と、武侯祠を保護するよう厳命を出し、内部職員はすべての扁額や対聯を毛沢東語録や文化大革命のスローガンで覆い、「文臣武将廊」には毛語録を刻んだ碑を建て往来を阻むなど、様々な措置を講じて保護に努め、結果、大規模な破壊を免れることができた[83][64]。
文革中の1971年、英国籍の華人女性作家・社会活動家の韓素音(ハン・スーイン)が成都を訪れ、武侯祠を見学しようとしたが、まだ閉鎖されており、一部の塑像には髭や指の欠損が見られ、祠内は荒廃した状態だった。そこで、職員はこの機会を利用し、集中的に環境整備を行い、特別に民間の職人を招いて塑像の破損箇所を修復した。こののち、武侯祠は徐々に一般公開されていく[64]。
現代:博物館の成立

1984年「成都武侯祠博物館」成立[9]、その他沿革は以下の通り[10]。
- 1997年:「三義廟」を武侯祠に移転(→#三義廟)。
- 2003年:成都南郊公園(→#西区)を合併。
- 2004年:武侯祠東に「錦里」開放(→#錦里民俗区)。
- 2005年:以降、旧正月に「武侯祠成都大廟会」開催[84][注 7]。
- 2008年:国家一級博物館認定。
- 2009年:錦里二期地区の開放。
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主な特色

敷地面積は約15万平方メートル。劉備、諸葛亮と蜀漢の英雄を称え、君主と臣下を一体で祀る、中国国内で唯一の寺院である[2][3]。
武侯祠は主に恵陵、漢昭烈廟、諸葛亮殿、三義廟の「三国歴史遺跡区」と、川軍(四川軍)の有力指導者・劉湘の陵園が主体の「西区」(三国志文化体験区)、四川西部の民俗・風俗を反映した「錦里民俗区」の三大要素から成る[89]。
「劉備殿」東西の廊に並ぶ、文官・武官合わせて28人の塑像は、清代の民間芸術家の手によるもので、成都武侯祠博物館の『武侯祠大観』によると、「塑像の外見は後代の伝承や小説・戯曲由来である」[90]と記されているように、これらは『三国志演義』を基にした、清代の戯曲の演者の姿を基に塑像されている[91][3]。
三国歴史遺跡区
要約
視点
漢昭烈廟
- ①漢昭烈廟大門
- ②劉備像
- ③関羽像
- ③張飛像
①大門:上部には、「漢昭烈廟」と金色の文字で書かれた大きな扁額が掲げられ、「漢」は劉備の国号、「昭烈」は劉備の諡号から[19]。扁額の文字は、民国時代に第29軍軍長だった劉成勲の直筆によるもの[92][64]。
②劉備殿:南北の建築様式を融合した特徴を持つ[38]。特に劉備殿は南方の特色が強く、雨対策の梁や、龍・鳳凰・鶴などを透かし彫りした華麗な支え弓が特徴[93]。殿内中央には、劉備が金箔に輝く3メートル超の塑像として鎮座する[19][94]。劉備像の左後ろには、祖先に殉じた孫の劉諶が祀られ[19][95]、子の劉禅は「亡国の暗君」を理由に排斥されている[96](→#惠陵と劉備の廟参照)。
③脇殿:劉備殿の東西の脇殿は「関帝殿」「張飛殿」と呼ばれ、関羽・張飛とその一族が祀られる[19]。
文臣武将廊
- ①龐統像
- ②趙雲像
- ③傅彤像
- ④黄忠像
現在の配置
蜀漢の名臣名将の塑像が、東の「文臣廊」と西の「武将廊」に計28体祀られる[101][73][102]。
28体の理由については、古代の人々が北極星を帝王の象徴と見なし、劉備を補佐する文臣武将を二十八星宿と結びつけたとする説や、後漢の光武帝・劉秀の天下統一を助けた28人の功臣・雲台二十八将に対応させたとする説がある[103]。
塑像と排列

(「[102]」を参考に作成)
「文臣廊」は龐統(①)が、「武将廊」は趙雲(②)が筆頭として祀られている[19]。当初(康熙11年)の塑像の排列は、最も尊い者を列の中心に配置し、官職や功績を基準に並べられていた(後述の、配置の変遷:1参照)。その後、「劉備殿」と繋がっていなかった廊下の北端を増築により接続し、その北端に最も尊い者が配置されることになった。しかし原因不明だが、調整は部分的なものに留まったため、文官の孫乾が「武将廊」に、武官の傅彤(③)が「文臣廊」に配置されるといった混乱が見られる。列中心から官職・功績を基準とする排列形式も保留されたままで、北端からの排列順位を考えると、趙雲の後ろには本来黄忠(④)が配置されるべきだが、中心のままである[104]。
また、趙雲の塑像が老人かつ甲冑ではなく文官の袍服姿となっている。彼の享年は史実では不詳だが、『演義』では70代で没したことから、当時の人々が敬意を持って老齢の姿で塑像したと考えられている[105][注 9]。文官姿の理由は、「老将軍」のイメージはすでに黄忠に定着していたためで、さらに、益州平定後の土地・住居の分配案と呉への出兵時に、趙雲が道理を説いてそれらを諫めたことから、その卓越した政治的見識と人格を讃え、文官姿にしたとされる[107]。
そのほか、魏延の像は当初から配置されていない。これは、史実で諸葛亮の死後、その遺命に従わず問題行動を起こし、最終的には三族処刑となったため、功臣として祀るには不相応の人物と見做されたため、と考えられている[108][109](配置の変遷:3も参照)。
配置の変遷
1:両廊への配置は康熙11年(1672年)再建時に始まり、当初の配置は以下の通り[110][73]。
2:道光年間(1821年~1830年)頃に塑像の調整が行われ、龐統と張飛は「劉備殿」へ、関興、張遵が父・張苞に代わり「丞相祠」(諸葛亮殿)に昇格、史書に存在しない李彪・張虎の像を撤去、呂乂他を追加、趙雲はこの年から武将廊筆頭となる[111][73][72]。
3:道光29年(1849年)、塑像の調整を指揮した劉沅が、法正・許靖・劉巴の像を「純臣」の基準に満たないとして撤去した[77]。劉沅は「法正は小さな恨みでも報復する性格であり、劉巴・許靖は何度も降伏して軽率(寝返り組)であった。彼らはみな昭烈の純臣とは言えない。そこで、私はあえてこれらの人物を正し、その事由を記して訪問者が理解できるようにした」と記している[78][74][104]。
諸葛亮殿
- 諸葛亮殿
- ①諸葛亮像
- ②諸葛瞻像
- ③諸葛尚像
『丞相祠』、『静遠堂』とも[112]。殿内には、綸巾と羽扇を持つ諸葛亮の塑像(①)があり[38][113]、武侯祠の中でも最も古い[114]。殿の扁額や梁の言葉は、諸葛亮の『誡子書』から引用され、その清廉な生涯と高遠な理想を称賛している[115]。諸葛亮像の左右には、共に戦場で散った息子・諸葛瞻(②)と孫・諸葛尚(③)の像が安置されている[116][38][117]。
三義廟
- 三義廟
- 劉備像
- 関羽像
- 張飛像
劉備、関羽、張飛の桃園の三結義を記念して建立した廟。元々は成都市中区の提督街にあり、清の康熙年間創建。乾隆・道光年間に修復が行われ、四進五殿の規模を誇った。しかし、解放前夜には拝殿と正殿のみが残る状態となる。その後、都市拡張のため、現在の位置に移築され、2000年の春節に一般公開された[118]。
恵陵
- 扁額
- 劉備墓
- 恵陵
- 紅壁挟道
劉備の陵墓。1700年以上の歴史を持ち、甘夫人と呉夫人も合葬されている[116][119]。諸葛亮自身が埋葬を執り行ったことを、『三国志』「先主伝」に、陳寿が詳細を記している[120]。戦乱で多くの古墓が破壊された明末期にも奇跡的に無傷で残り、盗掘の記録もない。劉備が生前、民衆に恩恵を与えた明君としての評価が、墓を保護する力となったためと推測されている[121][122](→#民間伝承参照)。
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錦里民俗区

- ①張飛牛肉(右側)
- 昼景
- 夜景
- 商店
→詳細は「zh:锦里」を参照
武侯祠の東側に南北に伸び、約550メートルにわたる。明・清時代の様式を外観に、川西地方の民俗文化を内容として、歴史と現代が有機的に融合された、精巧なレトロ調の通り。川西地方の伝統的な民家建築様式にすることで、古き成都の風俗を表現している[123]。
「錦里」の名は「蜀錦」に由来し、絹織物を指す。古くから養蚕が盛んで、シルクロードを経由して西域諸国へ蜀の織錦が遠く輸出されていたことから、かつて成都の別名としても使われるほど長い歴史を持つ[123]。『三国志』にも、劉備が益州(現在の四川)を占領した後、「諸葛亮、関羽、張飛らに金・銀のほか、「錦」を千匹褒賞として与えた」という記述が残されている[124][125]。
→詳細は「zh:成都小吃」を参照
通りに面して建ち並ぶ店々は5、6メートル幅の道の両側で向かい合い、通常は上下2階建て、1階は店舗として使われ、2階は別の用途に供されている。成都の有名な特産品である閬中発祥の「張飛牛肉」(①)[126]、抄手(ワンタン)、賴湯円(もち粉の団子)、担担麺、涼拌兔丁(ウサギの和え物)、夫妻肺片(モツの和え物)、串串香(火鍋の一種)といった四川の伝統的な軽食が楽しめる[123]。2006年に国家文化部から「国家文化産業模範基地」認定、2011年「成都新十景」選出、入場料は無料[123]。
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西区

- ①劉湘墓
- ②武侯祠美術館
- ③旌忠門
- ⑤2008年廟会
武侯祠西側に位置する三国志文化体験区(旧称・成都南郊公園)。元は劉湘の陵園だったが、2003年に東の武侯祠と併せられた[10]。
現在、以下の施設を備える[127]。
対聯「攻心」

成都武侯祠内に飾られている40種弱の対聯のなかでもっとも名高い、清の趙藩(雲南省出身)の作品で、「攻心(聯)」と呼ばれ、諸葛亮殿に掲げられている[128][114][3][129]。
能攻心則反側自消、従古知兵非好戦。
よく心を攻めれば則 ち反側も自ずから消ゆ、古 より兵を知るは戦を好むに非ず。
不審勢即寛厳皆誤、後来治蜀要深思。
勢を審らかにせずんば即 ち寛厳みな誤る、後来蜀を治めるに深思を要さん。
諸葛亮と馬謖との関係を踏まえたもので、前聯は七縦七擒(孟獲を捕えては逃がすを七度繰り返して心服させた故事)の挿話、後聯は「泣いて馬謖を斬る」の故事を背景としている[114][3][130]。後聯については、諸葛亮の厳格と劉璋の寛容とのふたりの政治姿勢の違いを述べたもの、との解釈がある[131][注 10]。
清光緒28年(1902年)、四川塩茶使者の官にあった趙藩が当時の四川総督への忠告として作成した[114][132]。毛沢東が強い関心を寄せた対聯としても知られ、再度成都武侯祠を訪れている[133]。
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民間伝承
以下は、恵陵と文臣武将廊の塑像にまつわる逸話・民間伝承。

モデルは、川劇(四川の戯曲)「太洪班」所属・龐統役で有名だった何二胖と伝わっている[134]。
- 恵陵の伝説:唐の『酉陽雜俎』に記される逸話。
ある夜、財宝を狙って盗賊たちが墓を掘って墓室に侵入した。しかし、そこには意外な光景が広がっていた。墓の主である劉備が、鎧姿の衛士たちに守られ、手下と囲碁を楽しんでいたのだ。煌々と照らされる灯りの前で、盗賊たちはひざまずいて命乞いをした。劉備は顔も上げず「何か飲むか?」と淡々と問いかける。答えられない盗賊たちに、劉備は衛士に命じて瓊漿(けいしょう:美しい酒)と玉帯を与え、即刻立ち去るよう命じた。盗賊たちは酒を飲み、玉帯を巻いて這うように逃げ出した。生還を喜んだのも束の間、彼らの口は瓊漿が変じた漆のようなもので塞がれ、言葉を失い、腰の玉帯は巨大な蛇に変わって彼らを締め付けた。許しを請おうと墓に戻ろうとしたが、墓の穴はすっかり消えていた[135][121][136]。
- 劉禅の塑像がない理由:民間伝承。
武侯祠の塑像が完成したその夜、劉備は孫の劉諶が蜀滅亡の際に国に殉じて自害したことを高く評価し、傍らに席を与えた。一方、子の劉禅に対しては、魏に降伏し、洛陽で「ここは楽しいので、蜀のことなど思い出しもしません」と発言したことを問い詰めたが、劉禅は「国など何の役にも立たず、苦労の種になるだけではないですか。この世に生を受けたのなら、酒と美食を喰らい、楽しく暮らせればよいのです」と答えたため、劉備は怒って劉禅を門外に蹴り飛ばした。このことから、劉備廟から劉禅の塑像はなくなってしまった[137]。
- 龐統の塑像の顔はなぜ黒いのか?:民間伝承。
清朝の果親王が成都の武侯祠を訪れると、趙雲の像が「主君の奥方を守りきれなかった罰」として山門に置かれている[注 11]ことに驚き、その不当さを訴え、趙雲の長年の忠誠心と功績から、像を武侯祠に戻すよう住持を促した。そこで、住持は趙雲を武将の筆頭とし、現在の白袍を着た若武者姿の像とは異なる、文官の袍服を着た老人の姿で塑像した。これは「趙雲が長寿を全うした」ことを意味する。しかし、この処置に不満を抱いた人物がいた。龐統である。「私は生前、趙雲よりも地位の高い軍師の立場で、彼は私の命令に従っていたではないか!さらに、趙雲は長生きして白髪白髭の姿なのに対し、私は短い生涯を閉じて青黒い顔で塑像されている!」と悔しがる。その時、果親王が自ら直筆した「名垂宇宙」(その名は宇宙に垂る)の扁額を諸葛亮殿に掲げた。龐統の怒りは頂点に達し、顔は茄子色(紫黒色)に染まってしまった[139]。
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脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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