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戸川達富

日本の江戸時代前期~中期の武士 ウィキペディアから

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戸川 達富(とがわ みちとみ)は、江戸時代旗本交代寄合)・知行5000石。通称は主計、のち玄蕃。室は交代寄合本堂氏本堂玄親の娘。長男の達索の他の子として、玄親の子の伊親の養嗣子本堂苗親がいる。

概要 凡例戸川達富, 時代 ...
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経歴

備中庭瀬藩の第3代藩主・安宣の次男として生まれた。

延宝3年(1675年)3月23日に4代藩主で兄の安風より1000石を分知され、旗本となった。ただしこの時は双方とも幼年であり、兄弟の意思ではない。

延宝7年(1679年)に兄の安風が9歳で死去したことにより、大名戸川家は無嗣改易となった。しかし幕府により達安をして戸川家の名跡存続が許され、4千石を加増されて5千石の大身旗本・交代寄合として戸川宗家の名跡を相続した。所領の撫川に撫川陣屋を設けた。

天和3年(1683年)10月、幕府により庭瀬の一郡を召し上げられ、替地として小田郡の宇戸谷村・上高末村ならびに川上郡の二ヶ(仁賀)村・佐屋村・九名村・大津寄村・高山村を与えられた。

曽祖父の達安の時代から、戸川家の江戸屋敷溜池上屋敷麻布下屋敷と定められていたが、元禄10年(1697年)に幕府からの屋敷替えの命により溜池の屋敷が召し上げとなった。代替として、四谷内藤宿に屋敷を与えられた。これにより、麻布を上屋敷、四谷内藤宿を下屋敷とした。

宝永5年(1708年)1月11日、定火消となり、正徳5年(1715年)3月11日に職を辞した[1]

享保14年(1729年)、江戸にて病没。跡目は長男の達索が継いだ。

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脚注

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