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新田金山城
群馬県太田市にあった城 ウィキペディアから
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新田金山城(にったかなやまじょう)は、群馬県太田市のほぼ中央にそびえる標高235.8メートルの独立峰、全山アカマツに覆われた金山にあった日本の城(山城)。別名「金山城」、「太田金山城」。
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立地・遺構[2]


金山 (群馬県)の頂上にある山城であり、現在は、本丸跡とされている地点に新田神社がある。背後の斜面には石垣の一部が残存しており、往時の様子を現在に伝える。関東平野を一望に収めることができ、西方は一段低くなっており「日ノ池」「月ノ池」がある。西南には二の丸跡、三の丸跡と呼ばれる曲輪が残り、これら曲輪につながる尾根群には堀切が設けられている。また南曲輪には中島飛行機の創設者である中島知久平の胸像が建てられている。また、大手門は櫓門で、物見櫓は木だけで骨組みを建てた物で、名古屋城のような城ではなく砦のような城であった。また、大手門、木塀、物見櫓、柵といった建物の復元計画はない。
「戦国時代の関東の山城には本格的な石垣普請の城はない」という従来の定説が発掘調査で覆されたほど、多くの石垣が多用されている。
石垣
新田金山城の史跡環境整備事業に伴い、平成4年より発掘調査を開始し、石垣を多用した山城の姿が解明されつつある[3]。大手虎口[注 1]の東端土塁石垣において、石垣を改修した痕跡が認められ、計5回の改修が行われていることが判明した[3]。また、「アゴ止め石」を採用した箇所が、大手虎口を含めて広範囲に広がっていることも分かった。「アゴ止め石」は、石垣基底部(最下部)の石を、石垣の面より10cm~20cm前に出して据え置く技法であり、石垣が沈み込んで、前へ傾くのを防ぐためのものと考えられている[3]。先述の大手虎口東端土塁石垣では3回目の改修以降(発掘調査を行った太田市はⅣ期と分類している)に「アゴ止め石」の使用が確認され、石垣技術の向上等が推測されてはいるものの、時代を確定できる出土物がないことから時代の特定には至っていない。[4]
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歴史・沿革
室町時代以前
室町時代・安土桃山時代[5]

- 1469年(応仁3年)2月25日に金山築城の地鎮祭が執り行われる。同年(文明元年)8月には新田一族であった岩松家純が五十子陣(埼玉県本庄市)を退き金山城に入る。
- 1528年(享禄元年)頃に横瀬泰繁・成繁親子が城主の岩松昌純を殺し、実権を握る。
- 1565年(永禄8年)7月15日頃、横瀬成繁が由良に改姓。
- 1574年(天正2年)9月21日頃、由良成繁が上杉謙信の軍と金山城にて戦う。
- 1580年(天正8年)9月20日、武田勝頼が新田・館林地域を攻撃。
- 1584年(天正12年)2月19日までに由良国繁・長尾顕長兄弟は北条氏に従わないことを理由に糾明され、この日より母妙印尼を中心に一族家臣含め金山城に籠城するものの、同年春までに開城し、後北条氏に降伏したと考えられている。
- 1585年(天正13年)5月26日、由良国繁、桐生城に退く。
- 1587年(天正15年)9月2日、後北条氏、金山城の普請を10月中に終わらせるよう命じる。
- 1590年(天正18年)5月2日、豊臣秀吉の小田原征伐に際して、秀吉家臣の前田利家らが金山城を接収。同年7月11日に北条氏照・氏政を自害させた後、8月1日に秀吉は由良氏に常陸国牛久に知行5,435石を与え、城主を失った金山城は廃城となった。
江戸時代
近現代
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現地情報

所在地
- 群馬県太田市金山町40-98・長手町・東金井町
交通アクセス
- 東武伊勢崎線太田駅北口から史跡金山城跡ガイダンス施設まで徒歩約50分 約2.8Km (タクシー約7分)
脚注
関連項目
外部リンク
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