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楚攻略
春秋戦国時代の戦闘 ウィキペディアから
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楚攻略戦(そこうりゃくせん)は、秦の統一戦争の一部で秦が楚を滅ぼすまでの戦い。
攻略戦
要約
視点
紀元前226年、秦王政は楚攻略にどれだけの兵力が必要であるかを諸将に諮問した[1]。李信は「20万」で充分だと答え、王翦は「60万」が必要だと答えた[1]。秦王政は、王翦が耄碌したものと捉え、若く勇ましい李信の案を採用して侵攻を命じた[1]。王翦は老病を理由に軍職を辞し、故郷の頻陽へ帰った[2]。また、楚の公子で秦の重臣でもある昌平君が楚の旧都郢(秦の南郡あるいは陳)に移された[3]。
第一次
同年、秦の将軍王賁が楚を攻め、楚軍を大いに破って10余りの城を落とした[4]。
城父の戦い
紀元前225年、李信と蒙恬は20万の軍を率いて楚に侵攻した。軍を2つに分け、李信は平輿(現在の河南省駐馬店市平輿県)で、蒙恬は寝[注 3]で楚軍に大勝した[1]。さらに李信は鄢郢[注 4]を攻め、楚軍を破った[1][2]。
その後、李信は兵を引いて西へ向かい、城父(現在の安徽省亳州市譙城区)で蒙恬と合流した[注 5]ところを楚軍に急襲された。楚軍は三日三晩休むことなく攻め続け、李信の軍を大いに破った。さらに楚軍は二つの拠点に攻め入って[注 6]都尉を7人討ち取り、秦軍を潰走させた[1][2][5]。
秦王政は敗戦の報を聞いて激怒し、自ら頻陽へ急行して王翦に謝罪し、再び将軍として軍を率いてくれるよう懇請した。王翦の「兵六十万人」の条件を秦王政は承諾し、蒙武を裨将軍(副将)とした[2]。
第二次
紀元前224年、王翦と蒙武は60万の大軍を率いて出陣した。この秦の大軍に対し、楚は国内の兵を総動員して備えた[2][6]。
王翦は国境付近に到着すると、堅固な陣を敷いて守りに徹し、楚軍と決して戦おうとしなかった。王翦はついに楚軍が東へ退却したのを見計らうと、全軍を挙げて追撃し、精兵でもって楚軍を大いに破った。王翦と蒙武は蘄南(現在の安徽省宿州市埇橋区南)まで進軍し、楚の大将軍項燕を討ち取って楚軍を潰走させた。秦軍は勝勢に乗じて楚の城邑を次々と平定した[2]。
紀元前223年、王翦と蒙武は楚王負芻を捕虜とした。楚は滅亡し、秦は楚の領土を三つの郡に分けた[2]。
紀元前222年、南方に出征していた王翦はついに楚の江南の地を平定し、百越の諸王を降伏させ、ここに会稽郡を置いた[2][3]。
異説
楚の滅亡の経過については、司馬遷『史記』の中で2つの異なる記述が存在し、上記は六国年表・楚世家・白起王翦列伝・蒙恬列伝および『資治通鑑』などに基づく。以下は『史記』秦始皇本紀の記述に基づく。
紀元前224年、秦王政は引退した王翦を召し出し、懇請して将軍に復帰させ、楚攻めを任じた。王翦は陳から南の平輿に至るまで攻略し、負芻を捕虜として楚を滅ぼした。その後、項燕は昌平君を楚王に擁立し、淮南(淮河以南)[注 7]で秦に反旗を翻した[3]。
紀元前223年、王翦と蒙武は楚を攻め、楚軍を破った。昌平君は戦死し、項燕もついに自害して楚は完全に滅亡した[3]。
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脚注
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