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明治時代の義塾の一覧

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明治時代の義塾の一覧(めいじじだいのぎじゅくのいちらん)では、明治時代日本で「義塾」を称した教育機関(主に私塾私立学校)について述べる。

概要

中国において「義塾」とは、公衆のために義捐金で運営される学費不要(無月謝)の学塾を意味し、14世紀半ばの末に書かれた陶宗儀輟耕録』にみられるという[1]

日本における「義塾」用例の先駆は、天明7年(1787年)、のちに蝦夷地探検で功績を挙げる当時17歳の近藤重蔵が、同志と協力して年少子弟のために開いた私塾の名称「白山義塾」であるとされる[2]。また、掛川藩儒員・松崎慊堂の日記『慊堂日暦』の文政8年(1825年)1月25日の条、慊堂が桑名藩の儒者広瀬蒙斎を訪れ「義塾の事を議す」との記述、さらに寺門静軒天保3年(1832年)に著した『江戸繁盛記』4篇学校の項にある「官学外儒門の義塾」という記述が比較的初期の用例である[3][4])。なお、文久3年(1863年)には久保田藩(秋田)に国学平田篤胤の門人らにより「雷風義塾」が創設されている。

一方、安政5年(1858年)に福澤諭吉は築地鉄砲州の中津藩江戸藩邸で蘭学塾を開き、10年後の慶応4年(1868年)に芝新銭座(現在の港区浜松町)に移転、以降同塾を「慶應義塾」と称した。

蓋此學を世に拡めんには学校の規律を彼に取り生徒を教道するを先務とす。仍て吾党の士相与に謀て、私に彼の共立学校の制に倣ひ、一小区の学舎を設け、これを創立の年号を取て仮に慶應義塾と名く『慶應義塾之記』より

「彼の共立学校の制」とは、英国パブリック・スクールを指すものとされ、従って慶應義塾の「義塾」とは、中国伝統の「義塾」という語に英国の近代私立学校の概念を付加したものと解されている[1]

明治期には、おもに慶應義塾の影響により日本全国で「義塾」を称する私塾が設立されたが、各塾の教授内容は和学皇学・漢学洋学、教育段階は初等教育から中等教育専門教育まで様々であった。なお、『慶応義塾百年史 下巻』によれば、慶應義塾以外にも、明治以前に「義塾」を称する私塾が少なからず創立していたことが判明している[注釈 1]

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要約
視点

明治期に存在・創立された義塾と名のつく私塾・私立学校は以下の通り(判明している場合、数字は明治暦での創立年[注釈 2]を、* は明治以前創立を示す)[5]

なお、慶應義塾は大阪・京都・徳島に分校を設置したが、それ以外に分校として紹介される私塾は同塾を模倣して「義塾」を使用したに過ぎない。人的交流があったケースもあるが、正確には慶應義塾の分校というのは誤りである[6]

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脚注

参考文献

関連項目

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