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服部保正

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服部 保正(はっとり やすまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。通称は服部中服部中家の祖。徳川氏に仕えて伊賀者を預かった。

概要 凡例服部保正, 時代 ...

生涯

天正4年(1576年)初めて出仕して徳川家康側衆となる。のち使番となり、天正12年(1584年小牧・長久手の戦いでは家康の眼前で敵の首級を挙げる武功を立てた。父保次は天正15年(1587年)に死去し、家督を相続。関東移封後は下総国葛飾郡に500石を与えられた。慶長5年(1600年関ヶ原の戦いでは徳川秀忠の軍に属して上田合戦に従軍。慶長7年(1602年上総国夷隅郡に1550石を与えられ、後に常陸笠間城将となる。

慶長13年(1608年慶長宗論では、流罪となった日蓮宗僧を駿府町奉行まで送還している。また関東諸国の巡見を命じられ、慶長16年(1611年)北関東の諸国に賊徒が蜂起すると、久永重勝細井勝久らとともにその対応を任せ、山林に分け入って数十人を討ち取るなどその掃討に貢献した。その後は上野新田の大光院建立の普請奉行を命じられたが、慶長19年(1614年大坂の陣が起こると、普請を中断して大坂へと従軍した。慶長20年(1615年)大坂夏の陣にも従ったが、この時に長男の保光天王寺口の戦いで失っている。翌元和2年(1616年)に没し、家督は次男の保俊が継いだ。

服部中家の屋敷は四谷仲町(現若葉一丁目)にあり、一帯は菩提寺の湖雲寺や配下の伊賀者の屋敷が立ち並んだ。この町名は保正ら代々の服部中にちなむ。

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出典

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