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朝倉氏景 (3代当主)
越前朝倉氏第3代当主 ウィキペディアから
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朝倉 氏景(あさくら うじかげ)は、南北朝時代の武将。朝倉氏の第3代当主。第2代当主・朝倉高景の子。
生涯
父・高景と同じく、文和4年(1355年)2月15日の京都の合戦において[1]、貞宗(相州貞宗か)の名刀で奮戦し、足利尊氏から偏諱を賜り、氏景と称するようになったとされるが、この時朝倉氏は南朝側に属して尊氏と敵対していたため、尊氏が氏景に偏諱を与えたという話は怪しい[2]。
その後、貞治の変で主君・斯波高経が室町幕府から討伐の対象とされると、父・高景が幕府側に通じて所領を安堵され、一時期斯波氏を離れている。康暦年間に斯波氏が越前守護に復帰すると、斯波氏の家臣に復帰した[3]。
その後、摂津の合戦でも戦功を挙げ、足利義満から「大功」の法名を賜ったとされる(『朝倉始末記』末巻「日下部系図」より)。
しかしその後、朝倉氏は幕府や主筋たる斯波氏から冷遇されるようになり、明徳年間の斯波氏重臣を記した「相国寺供養記」に氏景など朝倉氏の名前は記載されていない。
応永8年(1401年)、弘祥寺に仏殿を建立し、一乗谷に熊野権現を勧請した。これが朝倉家の一乗谷と関係する最初の事例である[1]。
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脚注
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