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木下文信
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木下 文信(きのした ふみのぶ、1966年9月4日 - )は、大阪府東大阪市出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。
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来歴・人物
近大附高では2年秋に府大会準決勝でPL学園と対して桑田真澄と投げ合うも清原和博ら打線の前に大差で敗れる。3位で出場した近畿大会では初戦で延長12回完投するも日没で引き分けとなり、再試合では完投7回コールド勝利すると、準決勝まで進み桑田登板を温存したPL学園にコールド負け。3年春の府大会準々決勝では再度PL学園と対して完封勝利[1]、夏は準々決勝で再戦するが清原に本塁打を浴びて敗れる。その後は社会人野球の大阪ガスに進む。
1987年のプロ野球ドラフト会議で近鉄バファローズから6位指名を受け入団[2]。
プロ1年目の1988年から一軍初登板を果たし、同年10月19日のダブルヘッダー「10.19」では、第2試合の最後の投手として登板した(翌1989年10月12日の「10.12」決戦ダブルヘッダーでも第2試合の最後の投手として登板している)。左投げの中継ぎとして1995年まで在籍したが、オフに荒井幸雄・小坂勝仁との交換トレード(プラス金銭)でヤクルトスワローズへ移籍[2]。
ヤクルトでも中継ぎとして登板するが、1997年を最後に現役を引退した[2]。
引退後の1998年に大阪市に不動産会社「株式会社フォーティーワン」を設立し、代表取締役を務めている[3]。またその傍らNOMOベースボールクラブが主催する野球教室等で指導を行い、2022年現在はコーチを務めている[4]。
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詳細情報
年度別投手成績
記録
- 初登板:1988年4月9日、対阪急ブレーブス2回戦(西宮球場)、7回裏一死より3番手で登板し1/3回を完了
- 初勝利:1988年5月14日、対日本ハムファイターズ7回戦(東京ドーム)、5回裏一死より2番手で3回2/3を無失点完了
- 初先発:1991年5月26日、対福岡ダイエーホークス9回戦、(鹿児島県立鴨池野球場)、5回2/3を2失点
背番号
- 41 (1988年 - 1989年)
- 34 (1990年 - 1995年)
- 24 (1996年 - 1997年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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