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本庄正則

日本の実業家 ウィキペディアから

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本庄 正則(ほんじょう まさのり、1934年4月25日 - 2002年7月22日)は、日本実業家伊藤園の創業者。

概要 ほんじょう まさのり 本庄 正則, 生誕 ...

経歴

要約
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略歴

兵庫県神戸市出身[3]。1959年早稲田大学第一法学部を卒業して東都日産モーターで自動車セールスマンをしていたが、脱サラし日用品訪問販売会社「日本ファミリーサービス株式会社」を1964年に埼玉県で起業した[4]。同社取扱商品の中の一つであった茶葉製品に注力するかたちで、1966年6月に産地直送の販売手法による「フロンティア製茶株式会社」を静岡県静岡市神明町(現・静岡市葵区神明町)に設立[3][4]。茶葉製品市場に参入した[4]。その後、東京・上野にあった茶問屋「釜邦」より「伊藤園」の商号を200万円で譲り受け[5]、1969年5月より現社名の「株式会社伊藤園」に商号を変更している。同年6月、株式会社本庄商事(旧・日本ファミリーサービス株式会社)および合資会社ビーエー商会から緑茶事業の営業譲渡を受け、生産部門を確保し製茶事業にも参入した[6]

1966年に手形詐欺事件に巻き込まれ、約5,000万円の不良債権を抱えるなど、創業期の経営は順風満帆とは言えなかったが[7]、量り売りが主流であった当時の茶葉販売において、1972年日本初の真空パッケージ入り茶葉の製品化に成功した[5]。さらに埼玉銀行(現・りそな銀行埼玉りそな銀行)より資金を借り入れ、1974年静岡県榛原郡相良町(現・牧之原市)に生産工場と研究所を建設し[8]流通業からメーカーへの転換を契機に業績を拡大していった[5]。1981年に缶入りウーロン茶、1985年に缶入り緑茶を、世界で初めて発売[5]。1989年発売した缶入り日本茶「お〜いお茶」が大ヒット商品となり、1998年には伊藤園は東証第一部上場企業にまで成長した[3]

伊藤園の出資者のひとりであった[3]政治家小渕恵三とは伊藤園の創成期に出会い、親交が深く家族ぐるみでの付き合いであった[9]。また、小渕恵三の死後、長女で衆議院議員の小渕優子が政治家を志す決断をしたのは、本庄の言葉がきっかけであったと小渕優子が回顧している[10]

年譜

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人物

  • 性格は豪快で親分肌である一方、シャイで照れ屋であった[20]。また、財界の友人たちからは、 「一途に究めるタイプ」「気配りの天才」「義理、人情を重んじる人」として知られていた[21]。例えば、親交のあった東映元社長の岡田茂は、「本庄君は、頼まれたら嫌とは言えない人間だった」と評している[22]。また、同じく親交のあったオンワード樫山元会長の馬場彰は、「義理人情の男」と評している[23]
  • 学生時代には柔道部に所属し、高校2年生で二段を取得していた[20]
  • ゴルフ好きで、自らコース設計に参加し千葉県にゴルフ場(グレートアイランド倶楽部)を作るほどであった。また、腕前もプロ級でありホールインワンを8回達成。24歳でゴルフを始めてから1年ほどでハンデキャップ8、4年でハンデキャップ1という実力であった[21]
  • 東急グループ五島昇を尊敬し、プライベートでゴルフやトローリングに出かけるなど親交があった[24]。その陶酔ぶりは、本庄がゴルフ場作る際に五島の名から「ファイブ・アイランド」という名前にしようとしたほどであったが、最終的に「アイランド」のみ残し「グレートアイランド倶楽部」と命名した[24]
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親族

  • 弟・本庄八郎 - 伊藤園代表取締役会長
  • 長男・本庄大介 - 伊藤園代表取締役社長
  • 次男・Yosuke Jay Oceanbright Honjo(本庄洋介) - 伊藤園取締役、同アメリカ法人社長
  • 三男・本庄竜介 - グレートアイランド倶楽部代表取締役社長
  • 甥・本庄周介 - 伊藤園代表取締役副社長

  ・小出信介 - 小出公認会計士税理士事務所代表

脚注

参考文献

外部リンク

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