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李恒九

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李 恒九(イ・ハング、이항구1881年8月21日または10月12日 - 1945年3月6日)は、大韓帝国官僚日本統治時代の朝鮮における朝鮮貴族李氏朝鮮末期の政治家であった李完用と妻である趙氏の間の次男であり、1924年日本紀元節である2月11日に、男爵の爵位を受けた。彼の襲爵は、李王職における功労と、李完用が皇太子(李垠)の嘉礼(結婚式)に特別に貢献した功労が考慮されておこなわれた。

1911年から李王職事務官となり、李王職庁で勤務した。官職は李王職次官に達し、1945年光復直前に風邪、急性肺炎などの合併症で死亡した。は又堂(ウダン、우당)、本貫は牛峰(ウボン、우봉牛峰李氏朝鮮語版)であった。

生涯

要約
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1881年8月21日または10月12日に、李完用の次男として生まれた。兄の李升九(イ・スング、이승구)に跡継ぎがなかったので、後日、自身の息子である李丙吉を兄の養子として送り込んだ。漢城府に生まれ、早くから近代式教育を受けた。1899年光武2年)4月14日、官職に上がり、社稷参奉、判任官八等に任命されたが、翌日には依願退職した。1905年6月15日、日本公使館3等参書官となり、1906年1月19日に六品に昇進して、安陵碑閣の営建標石(안릉비각의 영건 표석)を立てる際に参与し、1月23日正三品朝鮮語版に昇進した。9月6日、秘書監承主任官、奏任三等六級に任命されたが、すぐに依願退職した。

1907年3月20日、奉常司副提調主任官3等、奏任三等となり、4月20日にいは従二品朝鮮語版に昇進して、太祖高皇帝樹植碑(태조고황제수식비)を修理する際に別単(별단)として参与した。同年7月23日に再び秘書監承になったが、9月16日に兼任掌礼院掌礼(겸임 장례원 장예)に任命され、その年の嘉義大夫(가의대부)に昇進した。

1911年李王職事務官となった。1911年12月5日、李王職事務官高等官三等を委任された。彼は、一説によると、1913年に韓国で初めて人命を障害する交通事故を起こした人物とも言われている[1]

韓国併合を定めた「韓国併合ニ関スル条約」以降も、1918年李王職儀式課長などを務めた[2]。1918年4月9日には李王職儀礼式課長、1920年10月30日には李王職儀式課長となった。同じく1920年に、朝鮮蚕糸協会(조선잠사협회)が組織されると、副会頭に任命された。

1921年6月22日には李王職庁の贊侍(찬시)となり、高等官二等に任命されて、李王職庁の掌侍司(장시사として勤務した。1924年2月に、独立して分家を建て、2月11日紀元節従四位勲二等に叙され、男爵の授爵を受けた[3]。父である李完用の爵位(侯爵)とは別の授与であった。

1932年7月に李王職次官に昇格した[4]。また1933年9月10日には、京城府長谷川町の京城府庁舎前の建物に組織されていた朝鮮蚕糸協会副会頭に再選出された。

1935年に刊行された『高宗実録고종실록)』の編纂では、日本人の編纂委員長の下で編纂委員会副委員長を務めた。1935年朝鮮総督府が編纂した『朝鮮功労者名鑑朝鮮語版』に朝鮮人功労者353人のうちの1人として、父である李完用とともに収録された[5][6]

1940年3月、李王職長官(大臣)となり[4]、高等官一等に任命された。1942年には勅任官待遇に昇級した。

最期は、風邪を患い、急性肺炎などの合併症1945年3月6日、京城府鍾路区玉仁町1番地の自宅で死亡した。彼の爵位は次男の李丙周朝鮮語版が襲爵した。

没後

李恒九の遺体は、ソウルの博文寺で永訣式(告別式)をした後、すぐに全羅北道益山郡朗山面朝鮮語版浙山里(낭산리)に運ばれ、埋葬された。1945年8月10日の日本の敗戦後、朝鮮は独立し、彼の爵位を世襲した息子の李丙周は、反民族行為特別調査委員会に提訴された。李丙周は、1962年日本国籍を取得し、1983年4月27日大韓民国国籍を喪失した。

李恒九は、2002年に発表された「親日派708人名簿」、2008年民族問題研究所が『親日人名辞典』に収録するためにまとめた「親日人名辞典収録者名簿」、2009年親日反民族行為真相糾明委員会が発表した「親日反民族行為705人名簿」のすべてに選ばれた。これら3つの名簿には、父の李完用、早く死去した兄の李升九の養子として入籍され、李完用の跡を継いで侯爵の爵位を襲爵した息子の李丙吉が含まれている。

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1920年代に撮影された李完用一家の男性たちの集合写真。中央で座っているのが李完用。その後ろに立っている3人の中央が李恒九。
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家族関係

要約
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夫人の金鎮九(キム・ジング、김진구)は、1933年11月13日に京城府玉仁洞の自宅で死亡した。以後、李恒九が再婚したかどうかは記録がないので分からない。金鎮九の死亡記事は1933年11月16日付の『朝鮮中央日報조선중앙일보)』に、永訣式は1933年11月18日の『朝鮮新聞조선신문)』に報じられた。

興宣大院君
 
 
 
 
 
 
李鎬俊
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
趙秉翼
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
李氏
 
 
 
李允用
 
李完用
(養子)
 
 
 
趙氏
 
 
 
趙民熙朝鮮語版
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
李明九
 
 
李升九
 
イム・キルグィ
 
 
李恒九
 
金鎭九
 
趙重寿朝鮮語版
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
李丙玉朝鮮語版
 
李丙吉
(養子)
 
李丙喜
 
 
李丙周朝鮮語版
 
李丙喆
 
李丙吾
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評価

父である李完用は現金富者で、貸金業者に現金を貸し、利益を得て富を蓄積しており、息子の李恒九も、朝鮮で現金では一番という評価を受けていた[7]。若いころから遊ぶのが好きで、酒を飲み、よく食べる、豪放な性格だったとする人物評価が残っている[8]。他方では、その人物像について、多才であり、時間を無駄に使わず、研究心が旺盛で国内外の新刊書、新聞、雑誌などに読み耽ったという評価もある。また、識見に乏しく酒色を楽しむ他の貴族、名門家の子女たちとは異なり、節制心が強く、端正で、責任感が強い、という人物評もあった。李恒九はスポーツを楽しみ、趣味は野球撞球テニスなどだった。

李完用は、李太王(高宗)に重用されたが、李王(純宗)からは疎まれており、李王は李完用の息子である李恒九が近侍することも嫌ったとされるが、当時の李王職の人事は朝鮮総督府が掌握しており、李王は人事に介入できなかった[3]。李王職の事務官であった権藤四郎介は、李恒九について、父の威光で出世しただけの「不肖の子に過ぎぬ」と評した[3]

脚注

参考文献

外部リンク

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